神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 2コリント4:6)
ガラテヤ人への手紙は本当は次のようにまとめられるものです。クリスチャンはあらかじめ定められたあれやこれやの事柄を実行する人ではありません。禁じられているのであれやこれやを行なうことが禁じられている人でもありません。またあなたはこうしなければならない、こうしてはいけないという生活様式や秩序や律法体系に支配されている人では決してありません。そうではなくクリスチャンは次のように言うことばで理解される存在です。
「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:15~16)もうひとつの唯一の言い方は、神は私の目を開いてイエスを見るようにされたであります。二つの言い方は同じです。ダマスコ(※)の道路はその場所です。「主よ、あなたは誰ですか。私はナザレのイエスだ」「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」その二つは一つであり、同じことなのです。
内側にイエス様を見ることそれが人をクリスチャンにさせるのです。「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(2コリント4:6)「私たちの心を」とは、内なるところで、キリストが大層明らかになったことが、私たちをクリスチャンにさせるのだということです。クリスチャンがある事柄を行なったり行なわなかったりするのは、何かクリスチャンの決まり、なおさらユダヤ教以上の何かの決まりに命令されてのことでなく、心のうちにおられるキリストの御霊に従ってのことなのです。それがクリスチャンになるということです。
この基本は残余の全てのことに当てはまり、完成にまで導かれることです。なぜならそのことはまさしく日々成長していく事柄であるからです。したがって基盤は上から来ることに依存しなければならないのです。二つの事柄は全く一致しています。それは見ることです。キリストを見ることなのです。
(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003112.htmlです。※ダマスコとは使徒9:1~19、22:3~10、26:12~18などに描かれているパウロの証に登場する場所です。この「霊的視力」とも訳せる主題のもとに書かれた文章はこれまでも何度か登場しています。1/27「私は見える」3/19「目が見えるようにしてください」がそれです。参考のためにそちらもお読みください。)
0 件のコメント:
コメントを投稿