2011年4月8日金曜日

「見よ」という強い言葉

花びらの 素直さ我に 乏しきか
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。(新約聖書 2コリント3:18)

beholding(注視する)」ということばは強い言葉です。それは、ちょっと見てみるということではありません。「凝視する」ということであります。それが新約聖書がbeholdingであらわしている意味です。私たちすべての者はキリストを凝視するのです。その時、キリストはご自身のうちに神のご栄光、神のご満足、完全な神の御心を映し出されるのです。

これが皆さんも私も霊において主イエス様を良く知り、主に心を全く向けなければならないという大切な点であります。私たちは聖なる場所を持たねばなりません。そこで主とともに退くのです。隠れ場を持たねばなりません。そこで主と時を思う存分過ごすのです。それは決してある特定の期間だけでなく、動き回っているような時にも、つねに私たちの前に主を置き続けることであります。主イエス様を見、知り続けるなら、私たちは主と同じかたちに変えられます。聖霊は私たちの関心を支配します。

皆さんも自ら心を傾けているもののようになるでしょう。それは間違っていますか。皆さんは人々がどんなことに関心を持っているかを知り、その関心事によって変えられて行く人々の性格というものを知っているでしょう。人々は絶えず頭を離れないもののようになるのです。人々は変わるのです。そして別の者になるのです。何かが人々をつかんで離さなかったのです。もはや人々は何か他のことについて考えたり話したりできないのです。それは人々の人となりを変えるのです。

ところでパウロは言いました。「私にとって生きることはキリスト、私はキリストから離れられない」beholding, beholdということばを使用するのは間違っていたのでしょうか。それでもなお善事であるにちがいありません。主が私たちの「頭を離れない」方となっており、絶えざる関心事であるならばです。私たちが主を見つめて離れないとき、御霊は私たちを主と同じかたちに変えて下さるのです。

(今日の箇所は Men Whose Eyes Have Seen The King - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003134.htmlです。昨晩も11時半強い地震がありました。当地は震度4でした。ゴーッという音ともに揺れ続けました。宮城が震源でした。一体いつまで続くのでしょうか。原発の破損とそれに伴い散布されかねない状況にある放射能飛散に日々おびえ、一方では援助の手を誰よりも必要としている東北の人々の存在、私の脳天を打ち砕くに十分な出来事が続きます。まさしくbeholdです。けれども同時に聖書は主をbeholdすることを一貫して主張しています。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」ローマ8:22~23

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