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2017年2月5日日曜日

あなたは主のうちを歩んでいるか

幼子の 描線なり 寿ぐ日 弟生まれ 妹は4年前 (長女夫妻に第四子誕生)
神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(新約聖書 ローマ8:28)

 (マルコの福音書によれば、イエス様が主のしもべとしていつも明確な行動をなさっていることが特徴としてあげられます。マルコに特徴的なことばは「すぐに」というものです。福音書にはおよそ(このことばが)40回登場し、しもべはどうあるべきかを示唆しています。もし私たちも主とそのご奉仕の通りに行動するならば、時間は無駄にならないでしょう。全精神は主にささげられねばなりません。そうすることにより人生は主に対する従順の目的が刻印されるのです。主との結びつきの中で、私たちの態度も必ず「すぐに」行動するはずです。)

 だから主イエス様はご自身の人生がこのように主に結び付けられている目的意識のゆえに強さを引き出しておられたのです。疑いもなく、私たちもその目的意識、つまり神の召しはわがものなりという意識から強さを授かるのです。それが、(悪魔という神の)敵が絶えず、そうではないと言って私たちをくじけさせる理由です。敵は私たちが目標に達しようとすると、疑問を起こすためにあら捜しをし、そして私たちにあなたがたの働きはむなしいと言うのです。もし敵が私たちの人生からその目的意識を奪い続け、証や働き、はたまた私たちがこうむっている苦しみの価値を疑わせるなら、私たちは強さをなくし、敵は勝ち誇ることでしょう。

 イエス・キリストはどんな場合にも神の強さを維持しておられました。それはご自身が父なる神様から遣わされたことから一歩も離れられず、父の目的を堅く保っておられたからです。もし私たちも人生の目的をしっかりとらえ、天からの召しをいつも仰ぎ見ているなら、強さを維持できます。しかし、そうではなく、もし私たちが自分自身の野心を実現しようとしたり、自らの計画通りに事を運ぼうとしたり、そのような動きをし続けるなら、私たちは神様からの力は何もいただけません。

 強さが維持されるために基本的なことは私たちがあくまでも神様の目的のうちにいるということを知っているということです。私たちの奉仕はつねに神の目的の結果であらねばなりません。私たちが神のご計画のうちにいると認識していることが最も大切なことです。私たちは自分自身を否定しなければなりません。神様のご目的の内には個人的な様々な関心の入る余地はありません。「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」それが神の目的のために召されている信者たちに示されている(神からする)明確な発言です。私たちは主イエス様が知っておられるのと同じように、神の目的のうちに自らがあるということを明確に知らねばなりません。

Christ Our All - Chapter 10  からの抜粋の私訳である。このメッセージの序によると1935年の12月にスイスのGümligenで語られたものである。引用本文は以下のサイトである。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003034.html 

追記:6年後の今日、同じ日に生まれた姉弟の誕生会が昨日持たれた。二人は10歳と6歳になったわけだ。さらに何年か後に彼らがこのブログを読んで人生を真剣に生きるヒントを得て欲しいと切に思う。 )

2011年7月20日水曜日

召し出された教会の素晴らしさ

あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。(新約聖書 ヘブル13:21)

(パウロは彼の手紙の中で繰り返し「神の計画に沿って」召されている人のことについて語っています。エペソ3:10~11にこれらの明確な宣言の一つがあります。「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、永遠のご計画に沿ったことです」私たちはそのことを未来時制だと思うかもしれません。しかし明確に「今」と言われています。神は、支配と権威を教えるご自身の教会に、今、事をなしておられるのです。私たちは神が私たちを取り扱っておられるのを眺めている目に見えない霊的存在によって取り囲まれているのです。彼らは私たちが通過しなければならない体験、そしてそれは私たちが神の永遠の計画と一致しているものですが、それらを見ています。
 その計画とは何ですか。その計画は私たちが神の御子の似姿に一致するということです。エレミヤ18:2~3に読むことができます。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。・・・ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。」支配と権威が、言わば陶器師の家に降りて来て、彼らは眺めているという案配だ。陶器師の手にある器は何ですか。それが教会なのです。しかし天の陶器師は器に満足していません。彼はそれを壊し、そして、新しいものを造らねばなりません。今やその粘土はろくろの上にあり、あらゆる種類の神の取り扱い、働きかけがなされねばならないのです。
 これらの目に見えない霊的存在はどのように天の陶器師が私たちを形造るかじっと見つめているのです。私たちは粘土です。時々陶器師の手の圧迫を感じたり、陶器師が教会を造り直している間は身の切られる思いを経験します。しかしあらゆる私たちの試練、苦しみ、私たちの困惑はただ神が私たちをゴールへ連れて行かれる道に過ぎないのです。彼のすべてのお取り扱いは私たちの上に効果を現し、私たちを変えるのです。そして高きにいます霊的存在はそれを見て、どのようにしてキリストが私たちの上に徐々に徐々に形造られて行くかの神の知恵を知って賛嘆することでしょう。それが私たちの召しであります。)

私たちが神の計画と真っ直ぐつながっているかぎり、神のわざは私たちのうちに行なわれるものです。すべてにまさって大事なことは私たちの働きではありません。神は私たちが神のためになすことよりも私たちのうちにあってなされることに関心をお持ちです。神はしばしば、私たちがたくさんの働きをしているときよりも、何もしないでいる時の方がはるかに目的を成し遂げられるのです。

陶器師の手はモーセが全く何もできなかった荒野にいた時に働いたのです。40年間彼は数匹の羊を世話していたに過ぎませんでした。そのことはそんなに素晴らしいことではありません。モーセが時々自分は何の目的で荒野にいるのか、また自分の人生は果たして価値があるのだろうかと疑問に思ったことは疑いありません。しかし天にある支配と権威はこの大した人物を見、神の知恵に驚いたのです。神はこの男を完全にする方法、その生活において神の道を取らせる方法を知っておられました。それは多くの神のしもべの場合にも真実であります。

神は良きことのために働いておられます。ご自身の器を造っておられるのです。私たちを扱ってくださる神の知恵があります。しかし私たちはそのことを知って、自らの計画や個人的な野心が必要でないことを知らねばなりません。粘土は完全に神の御手にあらねばならないのです。もし私たちが本当に神のためにこの地上生活を送っているのなら、神がご自身の目的を達成し、私たちのうちに神はそのご計画を成し遂げることがおできになるのだと確信させられることでしょう。そこにこそ私たちは力を見いだすのです。

あなたは自分が神の偉大な計画のうちにあることを確信しておられますか。誰もが神の計画の何らかの一翼をなしているのです。パウロが教会について語るとき、次のようにたとえています。「からだ全体は、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(訳注:エペソ4:16)てと。からだのどれ一つとっても働きのない部分はありません。めいめいが、また誰もが神の計画のうちにあらねばなりません。ある部分は非常に小さいかもしれません、しかしそれらは等しく重要であります。

私たちは神が私たちを一つの計画をもって召されたことを忘れてはなりません。その計画とは、私たちが自分自身を神に明け渡すことを悟ることであります。神が私たちを召されたことがたとえどんなことであったとしても、その備えをし、それを行ないましょう。生活を送らせる聖霊はつねに目的によって特徴づけられます。そのような生活にあっては私たちが失うものは何もありません。単なる一般論は信じないようにしましょう。それは十分ではありません。私たちの生活に対する神の考えにはかなり明確なものがあります。

すべての個人的な願望は捨てましょう、そして「すぐに」と迫って来る御霊に満たされましょう。神から召されていることを知り、自分たちの生活の目的を明確に認識している人々は明け渡すようになります。もはやこの地上の諸物に対していかなる関心も持ちません。彼らには一刻の猶予もないのです。時を上手に用いねばなりません。

(今や私たちの生活は栄光のうちにある主イエス・キリストと一致します。神の永遠の計画は天において支配と権威が支配するのと同様に宇宙的な次元をともなって広範囲に支配するのです。イエス・キリストの教会は大きな計り知れない神の計画にまかせられています。このことを知ることが力を意味するのです。このことを知れば、私たちは混乱と試練の時に(それを通して神はご自身の計画を働かせておられるのですが)平静でいられるだけでなく、主が言われたように世が私たちから奪い去ることのできない平安と喜びにも満たされるのです。
 私たちには天に召される召しという神の偉大な計画があります。だから私たちの生活には偶然の出来事というものは何もないのです。時は神によって定められているのです。私たちは神の約束の中にいるのです。神の計画はまだ完成していません。キリストがこの地上に来られることはその最初の段階に過ぎませんでした。しかしキリストが天におられるので、今や教会に関する神の計画のより完全な完遂があるのです。ですから、すべてのことにおいて、私たちの天の父なる神の御意志を主を信頼して認めましょう。恵みによってゴールに達することを信じて御霊にあってそのゴールに目を向けていましょう。)

(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 10 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003288.htmlです。)

2011年4月13日水曜日

主の訓練

花の蕾、5月にはどんな花を咲かせるでしょうか?
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。(新約聖書 ヘブル12:6)

地位と召命は子である自覚に基礎づけられておらねばなりません。その自覚なき民は神の前に無価値であります。)子たることの目的とは何でしょうか。それは私たちが霊的な責任のある地位につくということであります。主なる神様は決して神の子以外に「表面的、形式的に子である人々」に責任を与えられることは決してありません。そのために主は私たちを訓練されなければなりません。それは私たちが子である自覚を持ち、神様のために責任を取ることが出来るところまで連れて行かれるためであります。主は私たちが霊的に大人になり、完全に成長することを求めておられます。

このことは何かの聖書学校で取得できるものではありません。また、人々を「宣教」へと追いやることでもありません。神様は決して形をとおして働かれるのではありません。そうです。神様は私たちを神様の学校に連れて行かれるのです。その学校に連れて行き、訓練を施されるのです。もし主がそうして下さるなら、祝福があります。ただ神様の学校は単なる学校教育とは大変ちがったものがあります。

主のことばに「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあるとおりです。「主が受け入れる」ということばに目を留めて下さい。このことばにあたるギリシヤ語の正確な意味は、「受け入れる」でなく、「地位を与える」という意味があります。神様は私たちのうちに成長があるようにとつねに求めておられるのです。その状態において主は私たちを信頼することが出来るのです。

神様が私たちを取り扱われる時は、その背後に主が私たちを信頼して下さっているという驚くべき確信があります。主は私たちを信頼できる者としてくださっているのです。私たちは単なるしもべ、機械の部品であることだけを求めるのでなく、父なる神様と一体になった子、またその手に霊的な責任を与えられる子であることを願うのです。このことを真から認識するに至れば、なぜ神様が今なさるとおりに私たちを扱っておられるかを理解し始めるのです。しかし(それだけでなく)神様がその中におられるから私たちはその目的も確かだと知るのです。神様は神の子どもを試練から脱出させて下さるのです。

(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003144.htmlです。文中「表面的、形式的に子である人々」と訳者が独断で訳したところは「official people」がその原語です。要検討の訳だと思います。ご意見をお聞かせください。なおこの文章は3/14「子であることの栄光」に続く文章です。)

2011年3月14日月曜日

子であることの栄光

鳥は空を飛ぶ 昨日庭の「さんしゅゆ」を啄みにやって来たひよどり
父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる。(新約聖書 ヨハネ5:20)

神様と完全に一つとなっている人々だけが神を代理できるのです。たとえ私たちが、自らをどのように呼ぼうとも、また主のためになす働きがどのように偉大であろうとも神様はそのことを考慮なさいません。神様のところに来て次のように言ったとしても役に立ちません。

「主よ。あなたは私がこの働きに従事していることをご存知でしょう。だから私はあなたに助けてもらいたいのです」その言い分は神様が彼を助けねばならない理由にはなりません。神様は心から交わりを持っている神の子どもたちを助け、その彼らの働きだけを助けられるのです。「公式」にはその立場にない人であっても、公式に宣教師やその地位にあるたくさんの人々よりも主にとってはるかに有用なのであります。

重要なことは、私たちの霊的な知識や公的に人が承認した宣教ではなく、私たちが神様と隠れたところで交わりを持っているかどうかということであります。神様は私たちをご自身に仕えるのにふさわしく霊的に整え、仕事でなく子であることを支持してくださるのです。もし私たちが神様との交わりに気を配っているなら、神様は私たちのその立場を見られます。

神様はイスラエルを神の初子と呼ばれ、子であるゆえにイスラエル人を助けられました。従ってイスラエルは諸国民の間にあって重要な立場を占めることができました。イスラエルは地にあって神の証のために選ばれた器であったのです。けれども初子として神とともに進めなくなる時がやってきました。神様との心からする交わりが、単なる表面的な形のものになり、その結果、神様が神の民から引き出し、捕囚に送り込まなければならなくなったからです。

イスラエルが主に向かって、「なぜあなたは私たちをこんなふうにあつかわれるのですか」とか「私たちは諸国民の中であなたを代表する者でなかったのですか」という不平を言ったので、無用になったのでしょう。それに対して神様のお答えは「公的な立場はわたしにとって何の関係もありません。わたしはあなたがわたしとの持つ関係が正しくない限り、またあなたが子としての立場を重要視していない限り、あなたを助けることができません」というものであったでしょう。

あなたは神の子である私たちの立場や召しは子であることと関係があることがわかるでしょう。 主イエス様はまさしくその理由ゆえに子であることを強調されるのです。主イエス様は父は御子がこの地上で実現するために来た宣教を愛されるとは決して言われませんでした。けれども「父は子を愛された」と言われました。地位と召しは子であることの上に基礎づけられておらねばならないのです。子たることを抜きにしては、地位も召しも神の前には何の価値もないのです。

(今日は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。)