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2011年7月25日月曜日

主が臨在されるところ

Ich liebe die japanishe kultur と読める。人の悲しい性である。(高崎、洗心亭)
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)

キリスト教は始めには存在しなかった巨大な集積物となってしまいました。今日見るところのキリスト教は非常に複雑なものです。人の手により神のことがなり、彼ら自身の判断に沿ってこの大きなものを築こうとしてきたのです。ですから、ことごとく混乱があり、分離が生じ、複雑になっているのです。キリスト教の中で歩むことは本当に難しいです。キリスト教がそれ自身の大きな障害となってしまったのです。(51頁)

この国(訳注:フィリピン)のあちらこちらをまわり、またこの町(訳注:マニラ)もまわられると、屋根に十字架をかかげた大きな宗教建造物をご覧になるでしょう。そして人々がこれらの建物に入って行くなら、お互いに挨拶を交わします。皆さんが大変敬虔に見えます。そして人々もこの建物は大変神聖だと思います。もしあなたがそこで何かで邪魔をしようものなら、不敬虔だと言われます。けれども神様にとってそのことは全く意味のないことです。

神様にとって大切な唯一のことは素晴らしい建物でも、その堂内の素晴らしいことでも、屋根の上に掲げられている十字架でさえありません。大事なただ一つのこととは神様がそこに臨在されるかどうかです。神ご自身は今この場所におられますか。

(神様にとって、もし神様が臨在されるところでないなら、他のどんなところとも違わないのです。もちろんここにいらっしゃる皆さんのほとんどは今朝そのことに同意されますでしょう。)

けれども、神の家に来ることについてこのように話される集会に集って話を聞いている私たち自身はどうでしょうか。恐らく彼らはこの集会所にやって来る時、「今朝、神の家に出かけるのです」と言うことでしょう。そして祈る時には「今朝、神の家におられて大変うれしいです。主の家にいることは素晴らしいです」と言うでしょう。一体何がある場所を神の家とするのですか。この場所を聖別するのは何でしょうか。いやしくも神聖であるというなら、何が神聖にするのでしょうか。建物ではありません。神聖な建物でもありません。ここに参集している人々の集まりでもありません。そこを神聖にするのは主が臨在されるということです。

主は場所とか集まりとかに関心は持たれません。主がご自身の場所を喜んで臨在できる場所かどうかが唯一の関心事なのです。今、あの荒野の天幕はどこにあるか知りたいと思います。地下深いどこかに埋められていると思います。ソロモンの立派な神殿は今どこにあるかとも思います。しかしそれを見つけようとするのは時間の浪費だと私は思います。ご存知の通り、神様はこういうものを埋めてしまわれたのです。

(いいでしょうか、それらは非常に神聖でした。だから神様はそれらを保持しなければならなかったはずです。しかし神様はそうなさらなかったのです。天幕が本当の意味を実現しなくなった時、神様にとってもはや神聖でなくなったのです。神殿が本当の目的を達成するのをやめた時、神様だけはそれを放置なさいました。神様は異邦人がやってきて壊すままにされました。主のご目的・ご計画は主の御臨在であります。)(52~53頁)

キリストのものでないすべての物は解除されます。誤解しないでください。キリスト教のあらゆる体系は着々とキリストにしたがって試みられつつあるのです。

(キリスト教はただそれがどれだけ神様の聖霊の働きなのかキリストにしたがって試されるのです。やがてもう一度主は言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(訳注:ヘブル12:26)揺り動かされるものは将来取り除かれるのです。揺り動かされないものがいつまでも残るのです。それではいつまでもあるものは何でしょうか。荒野の天幕ではありません。イエス・キリストです。すべて、キリストにあるすべてだけがいつまでも残るのです。(56~57頁)

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003293.htmlです。)

2011年4月11日月曜日

滅びざるものは何か私に悟らせて下さい

「桜の園」のひよどりさん。何を食べるのだろうか。桜餅か?
この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(新約聖書 1コリント3:13)


私は皆さんが主を愛しておられることは疑ってはおりません。そのことについていささかの疑問もわきあがろうはずがありません。けれども、もう一度申し上げたいのです。私たちが取り囲まれているのは大きな(キリスト教という)体系・機構ではありますが、それは大変複雑に入り組んだものになっており、その上その多くの部分は主イエス様とは関係がないものであります。人が持ち込んだものであります。人間が主の事柄に手を差し入れ、人間が自分自身の考えで事をなし、それゆえに多くの事柄は人から出ているのであって、主からは出ていないのです。

その結果、私たちがキリスト教について言うのは、一般的な考えだけでなく、私たち自身の考えであります。このことは私たち自身についてあてはまることです。私たちはキリスト教と称されるものに入り込みその責任を引き受けています。けれども大変多くの除去しなければならないものがあり、本来の単純なものに戻さねばならないものがあります。すべてのうちで本来なくてはならないものは主の御臨在ということであります。私たちは知らねばなりません。すなわち、主は私たちとともにおられるということ、そして主は私たちがなすことのすべてのことのうちにあって私たちとともにおられ、このことは私たちの心の中に端を発していなかったということであります。私たちの意志や感情において始まったことでなかったということです。それは私たちの魂がよくなしたものではなく、詳細にわたり聖所である主から生じたことであります。まるで主イエス様が経験なさったように、あらゆる細かいところに至るまで、父なる神様が私たちのところに来て下さったのであります。


それは私たちをもとに戻させ、ひざまずかせるのに十分であるはずです。私たちの働きを一貫するものとなさしめるはずであります。私たちにとって必要なことは、時々立ち止まり、主に自分たちのなしていることを問うことであります。「このことは神様から出ているのですか、それとも自分自身から出ていることですか。このやり方は神様のみこころを行なおうとしているのですか、それとも自分のやりたいことをやろうとしているのですか。主がこのことのうちにおられますか、それとも私たちがすでにやり始めたことですか」と。


皆さんにもお分かり願えるように、それが大変決定的なことなのであります。誤解しないで下さい。人からしか出ないものはいずれ消え去るのです。早かれ遅かれふるい落とされることでしょう。すべての人の手のわざは火によって真価がためされるのです。みことばはそう語っています。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 15 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003142.htmlです。この文章の後にスパークス氏がどうしていわゆるキリスト教と称するものから離れて、啓示によって主イエス・キリストを知るようになったかの証が述べられています。1964年の2月10日のマニラでのメッセージのようです。それまで牧師としてまた聖書を丹念に教えていた彼がどうしてそれが主イエス様を妨げるものとなったかを具体的にいささか口ごもりながら語っています。
I do not want to talk about myself, but I want to help you by illustrating. For many years, I was what was called a minister in the denominations. I was a minister of what are called churches. I was a minister of two denominations at the same time. So I had the big religious buildings. And I wore a clerical collar and attire, and I was in that whole system of organized Christianity. I had a big pulpit. And I preached sermons, and I was paid to do it. Well, I was very earnest. I really believed that I belonged to the Lord. My heart was reaching out to the Lord.But, the time came, when the Lord showed me Jesus Christ. He began to reveal His Son in me.・・・・・

2011年3月6日日曜日

律法からの解放

パン職人が新婚カップルに贈られたメタル(?)スタートだけでなくゴールのメタル(?)
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新約聖書 ガラテヤ5:1)

律法主義はキリスト教の最も大切な言葉を切り捨てることによって、つねにキリストを十字架につけています。真のキリスト教に入るドアーの向こうにある言葉は「恵み」ということばです。それに対して、律法主義はつねに「恵み」ということばを消し、その代わりに「律法」と書くのです。

恵みはクリスチャンの語彙の中の中心になることばです。律法主義がもっとも完全に自らを現す場合、必ず空の墓でなく十字架であることを心にとめていますか。クリスチャンのしるしは空になった墓です。それは「死からよみがえったいのち」を指しています。律法主義のしるしは、十字架、「死せるキリスト」です。律法主義は必ず死を持ち込みますが、キリストに関する中心事は復活です。それこそ死人がよみがえって生きたことを示しています。

このことは、神がパウロに御子を啓示することを良しとされた時に経験するようになったことです。そして彼は言いました。このあらゆる律法主義の枠組みから自由にならせてください。私たちが十字架につけたナザレのイエスは生きておられます。イエス様は私の心の中に生きてご自身をあらわしてくださったのです、と。

もし私たちが主イエスを本当に見るなら、私たちは自由になります。私たちの中にはすでにその経験をした方がおられるでしょう。かつては私たちも律法主義に捉えられていました。私たちは律法を基準に物事を考えていました。

それから主が私たちの目を開いて下さった時に、キリストの大切さを本当に知る日がやって来たのです。そして律法主義の全体系はすべて無意味なものとして崩れ去ったのです。そうなんです。「あれやこれやのことから離れて、こちらの方に来なさい」と言うのが私たちの働きではないのです。「何々しなければならない」とか「汝はかくすべし」というのはこの領域では通じません。それは古い律法主義の領域に属することであります。

 「何々しなければならない」というのは霊的なことであり、決して律法ではないのです。パウロの場合、霊に導かれて力ある実行が実際にあったと言えるでしょう。私も主を知りました。そして益々主がどういうお方かを日々知らされているのです。主イエス様を知ることは私のうちに次のように(パウロが言うように)絶対になすべきこととしての生き方が日々新しく与えられるのです。

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、上に召してくださる栄冠を得る」(ピリピ3:13~14 )だから私たちは「あなたの仕組みを変えてください」と言いません。けれども私たちは言いたいです。「主があなたに御子を啓示してくださるように求めなさい」と。それがなされる時、偉大な(律法からの)解放の働きが始まるのです。

(今日の記事は1964年にフィリピンのマニラで語られたスパークス氏の一連のメッセージの記録 "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 29  の一つです。全部で42あるメッセージは比較的読みやすい英文です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003065.htmlです。写真は一月ほど前に披露された結婚式場のいかにもすぐれたパン生地によるケーキです。スパークス氏はパウロの言葉を引用しながらPRIZEということばを紹介しています。新婚夫妻にもこの神の下さるPRIZEを知って欲しいです。)

2011年1月21日金曜日

イエス様、あなただけが中心になってください

スコットランド・エジンバラの港に停泊していたアバディーン行きの貨物船。
アバディーンはオズワルド・チェンバーズの生まれ育ったところ
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4:23)

イエス様は女に言われました。「時が来ます。今がその時です」。そうして、主はその時まで存在していた全宗教様式をおしまいにされました。その様式とは旧約聖書にしばられたユダヤ教の全体系でありました。主は一文章ですべての(人間が勝手に設けた)制度を終わりにされました。そして完全に新しい(礼拝の)秩序を持ち込まれたのです。

主は何を言おうとされたのでしょうか。主が、「時が来ます、今がその時です」と言われたのは、文字通りの何時何分という時間をさすのでなく、新しい日の最初の時だという意味でした。この時、完全に新しくされた日が到来したのです。新しい日とはいったい何でしょうか。もしあなたがイエス様に短い文章で教えてくださいと頼んだとしたら、主は答えてくださったことでしょう。「いいですか、ここにわたしはいます」と。

時とは単なる時のことでなく、人の子のこと(人の子が到来された時のこと)なんです。新しい摂理はイエス・キリストが治められることにあります。キリストが新しい神の摂理なのです。「わたしはここにいます」と主はおっしゃいました。ヨハネの福音書を読んでください。主イエス様は万事につけご自身で中心になっておられます。曰く、「わたしは道である」「わたしは真理である」「わたしはいのちである」「わたしは羊飼いである」「わたしはぶどうの木である」「わたしはよみがえりです」それが人の子そのものの姿なのです。すべての事柄の背後にあるのはその事実なのです。

キリスト教はキリストです。キリストがキリスト教です。(ところが現在のキリスト教はキリストとは全く無関係になっています)キリストがすべての始まりであり、決してキリストから離れてはならないのです。キリスト者生活の進歩とはただ生活の中でイエス・キリストが盛んになられることだけなのです。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003019.htmlの私訳です。今日の箇所は1964年にオースチン・スパークスがマニラで42回の集会を持った時の録音テープから筆記されたもののようです。その集会の七番目のものでMeeting 7 - Christ Corporate is the Churchという題で述べられたものからの抜粋です。ほぼ40年間この記録は埋もれていたようです。関心のある方は上のサイトで直接読まれると大変益を受けられるでしょう。是非ご一読をお勧めします。)