2011年3月6日日曜日

律法からの解放

パン職人が新婚カップルに贈られたメタル(?)スタートだけでなくゴールのメタル(?)
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新約聖書 ガラテヤ5:1)

律法主義はキリスト教の最も大切な言葉を切り捨てることによって、つねにキリストを十字架につけています。真のキリスト教に入るドアーの向こうにある言葉は「恵み」ということばです。それに対して、律法主義はつねに「恵み」ということばを消し、その代わりに「律法」と書くのです。

恵みはクリスチャンの語彙の中の中心になることばです。律法主義がもっとも完全に自らを現す場合、必ず空の墓でなく十字架であることを心にとめていますか。クリスチャンのしるしは空になった墓です。それは「死からよみがえったいのち」を指しています。律法主義のしるしは、十字架、「死せるキリスト」です。律法主義は必ず死を持ち込みますが、キリストに関する中心事は復活です。それこそ死人がよみがえって生きたことを示しています。

このことは、神がパウロに御子を啓示することを良しとされた時に経験するようになったことです。そして彼は言いました。このあらゆる律法主義の枠組みから自由にならせてください。私たちが十字架につけたナザレのイエスは生きておられます。イエス様は私の心の中に生きてご自身をあらわしてくださったのです、と。

もし私たちが主イエスを本当に見るなら、私たちは自由になります。私たちの中にはすでにその経験をした方がおられるでしょう。かつては私たちも律法主義に捉えられていました。私たちは律法を基準に物事を考えていました。

それから主が私たちの目を開いて下さった時に、キリストの大切さを本当に知る日がやって来たのです。そして律法主義の全体系はすべて無意味なものとして崩れ去ったのです。そうなんです。「あれやこれやのことから離れて、こちらの方に来なさい」と言うのが私たちの働きではないのです。「何々しなければならない」とか「汝はかくすべし」というのはこの領域では通じません。それは古い律法主義の領域に属することであります。

 「何々しなければならない」というのは霊的なことであり、決して律法ではないのです。パウロの場合、霊に導かれて力ある実行が実際にあったと言えるでしょう。私も主を知りました。そして益々主がどういうお方かを日々知らされているのです。主イエス様を知ることは私のうちに次のように(パウロが言うように)絶対になすべきこととしての生き方が日々新しく与えられるのです。

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、上に召してくださる栄冠を得る」(ピリピ3:13~14 )だから私たちは「あなたの仕組みを変えてください」と言いません。けれども私たちは言いたいです。「主があなたに御子を啓示してくださるように求めなさい」と。それがなされる時、偉大な(律法からの)解放の働きが始まるのです。

(今日の記事は1964年にフィリピンのマニラで語られたスパークス氏の一連のメッセージの記録 "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 29  の一つです。全部で42あるメッセージは比較的読みやすい英文です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003065.htmlです。写真は一月ほど前に披露された結婚式場のいかにもすぐれたパン生地によるケーキです。スパークス氏はパウロの言葉を引用しながらPRIZEということばを紹介しています。新婚夫妻にもこの神の下さるPRIZEを知って欲しいです。)

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