2011年3月2日水曜日

神のご計画と恵み

ムクドリを 追い導かれ 野辺歩く
神は私たちを救い、また聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。(新約聖書 2テモテ1:9)

神のご目的は御子に関する永遠性から出発しておりました。そこには二つの事柄があるのです。あとの特徴として入って来たことではありません。私たちが時至って理解することに先行しています。それはこの創造や歴史に先行している事柄です。

世界の基礎が形造られる前に生じたことであり、時以前の永遠の目的は御子に関することでした。それは(最初の人 )アダム以前に戻ることです。そのことは神の目的を創造自身よりもはるかに意義あるものとするのです。神のご目的は永遠からあります。それがために神の目的はただ単に堕落していないアダムと結びつけられているだけでなく、神の御子と緊密に結びつけられています。

主イエス様は人を救うため、その(滅びの)運命から救い出そうとして、それだけが目的で来られたのではありません。私たちは贖いが全宇宙の最大の出来事であり、すべての神の関心は贖いにあり、それゆえもっぱら心を贖いに集中すべきだとして、これらのことが強調され、そのことを信ずるようにとだけ、ややもすると導かれているのではないでしょうか。

贖いは大切な事柄です。私たちは決して、決して、誇張することはできませんが、私は疑いを持っているのですが、私たちは贖いがどんなに偉大なことだと果たして知っているかどうかということです。贖いはその広さにおいても深さにおいてもその犠牲においても偉大なことであります。しかし、それにもかかわらず、贖いは永遠の目的からすると一時的なことに過ぎないのです。

キリストはご自身を受け継ぐ者を救うために時満ちて来られたのです。もちろん人はそのゆえに救われるのですが、実はそれ以上にはるかに大きなことがあるのです。そのことは第一義的に御子と関係することです。主の民が、正しい態度や正しい見方をとるまで、すなわち神の満たしや神の究極的な関心のあるすべての事柄は神の御子に集中していると、悟るまでは、まだそれらの人々は(救われたと言えども)神様が備えられているすべての宝を味わうところまでには至っていないのです。

関心が私たち自身に向かっている、すなわち贖い(義認)、聖化、栄化など私たち自身に向かっていたり、御子ご自身よりははるかに小さなことに向かっている間は、神がご自身の働きを完遂される御力を経験することがないのです。だから、聖霊の働きが十分でふさわしいものとなるように心にイエス・キリストの啓示を受けることが必要なのです。と言いますのは、すべての神の爆発的な力が解き放たれ活発になるのは、ひとえにキリストと神がキリストに関してあらかじめ持っておられる目的に関わることであるからであります。

(今日の箇所は The Kingdom That Cannot Be Shaken - Chapter 6 の抜粋引用訳で、原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003061.htmlです。 少し原文よりは数行手前から訳しましたが、意味が通じないところがあるかもしれません。疑問に思われる方は原文を直接お確かめください。「揺り動かされることのない御国」とも訳せるこのメッセージ全体も最初からこつこつ読んでこそ意義があるのでしょう。)

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