自己中心(ジコチュウ)と自分を責めて三日月の鋭き先を寂しみている(後藤瑞義) |
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(新約聖書 ヨハネ6:35)
「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)「わたしはまことのぶどうの木です」(ヨハネ 15:1)「わたしは、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)ここには主がどんなお方であるかを明らかにする偉大な、わたしは何々であるが続きます。そしてその場合、その宣言と「なる」という言葉がいかに度々連動して用いられているかにあなたも気づかれることでしょう。
ヨハネの福音書中には「わたしは何々である」とこの「なる」とが結びついていることが大変印象的です。それは必ずしも的確な言葉ではないかもしれませんが、文脈から同じ結論を見つけることはできるでしょう。いくつかの「なる」があります。
「わたしはいのちのパンです」「このパンを食べる者は永遠に生きます」(ヨハネ6:48、58)「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩くことがありません」(ヨハネ8:12)
主がどういうお方かということと私たち自身のつながりがこれなのです。「わたしを信じる者」わたしが何々であるがそのまま(信ずる)彼のものとなるのです。「わたしを信じる者は決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)
「・・・決して飢えることがありません」(ヨハネ6:35)羊飼いのいない羊のように彷徨い歩くことが決してなく、(主を信ずる)彼は生活において羊飼いのように、統率され導かれる真実を経験するのです。「決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」わたしは何々であることが真実となるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25~26)わたしはあるということはあなたがたが信ずる時にそのまま実現するのです。
ところで私たちはあるという者では決してありません。私は死んでいます。しかし主イエス様は生きておられます。私は死をどうすることもできないのですが、私が信じさえすれば、主イエス様は私の死にあって私のいのちとなることができるのです。私は飢えています、霊的に死んでいます。ところで主イエス様はパンです。だから私は飢える必要がないのです。たとえ私がいつも飢えていても、主が私を養うパンとなってくださるからです。
それを考えてください。私は飢える必要がないのです。私は友達もなく、食べ物もなく、人里離れた田舎にいて落ち込みます。霊的なパンが全くない遠くにいます。しかし主はおっしゃいます。「わたしを食する者は決して飢えることがない」このことばは霊的に食べ物を得るのに、私がいるところ、私の置かれた状態、環境によると言っていますか。
そうでないでしょう。場所じゃないのです。主御自身なのです。環境ではありません。けれどもどうしてそんなことが可能か(とおっしゃいますか)(鍵になる言葉は)「信ずる者は(He that believes)」です。主よ、私は飢えています。あなたはおっしゃいました。もし私があなたに満たしていただくならば飢える必要はない、と。今私はあなたのお言葉通りあなたを受け入れます。私にあなた自身を食べさせてください。
それを実行しなさい。私は主を実験するようにとそそのかしているのではありません。試して見なさい。あなたはきっと尊いお方とのつながっていることを体験なさるでしょう。私は全くきよくありません。私はこれからもそれ以外の何者でもないでしょう。しかし主イエス様はきよいお方です。主イエス様(だけ)が正しさやきよさにおいて父なる神様を満足させるお方なのです。
(今日も Features Of Zion - Chapter 4 の抜粋引用訳です。 この項目は以前2月2日「神の愛される台所」という題でご紹介しているものと同じ4章の文章です。やや後半折角ですから原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003069.htmlよりは付け足して訳しました。写真は昨晩の三日月です。月を見上げることはほとんどありませんが、なぜか昨日は空を見上げました。昨朝読ませていただいた後藤さんの短歌が心の中に残っていたからでしょうか。月を詠む短歌は多いと思います。有名な道長の歌とこの歌は何と異なることでしょう。イエス様はそんな私たちをどこにいてもこよなく愛していてくださることを上述の文章を通して知ることもまた何と大きな恵みではないでしょうか。)
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