2011年3月30日水曜日

十字架の原則

太陽を愛しておればたんぽぽは真似しまあるく輝いている 後藤瑞義
子は自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:19)

それが十字架の原則です。イエス様はご自身からは何事も行なうことができないという十字架の立場を甘受されました。そのことはすべて神様から発したことであるに違いありません。それ以外の道はありません。

私の人生においても30年前に大変革がありました。その時、十字架の原則が宣教(この宣教は長年携わってきたものですが)に反対して立ちはだかるようになりました。それだけでなく宣教に関するすべての事柄が、私自身に耐えられない重荷となるほど、スタッフを立ち上がらせるために、学んだり、読み物をしたり、真夜中までそういうことをしていたのですが、それらすべてに対してもその原則が反対するようになりました。

他の方々は恐らく私のそういう態度(一生懸命宣教に尽くしている姿)は立派だと思っていたでしょうが、その時は危機だったのです。宣教に携わっている方々やそのことを真剣に考えている皆さん、私の言うことに耳を傾けてください。大転換が起こり、この原則、十字架の原則を深く知るように導かれ、戸を閉めて密室で主に申し上げたのです。「私はあらゆる宣教をやめにします。 あなたが今してくださらなければ私は二度と説教をしたくありません。私はこの数年ずっと努力してきました。自分で生み出してきました。でももう終わりです。あなたがそれをなさってくださらなければ。」けれども私はその原則を知ったのです。皆さんもお分かりのように、十字架の原則とそれが私にとってどういう意味を持つのかを知ったのです。

私に自分のことを語ることを許してください。私は何らかの方法で家に収入をもたらさなければなりませんでした。翌週には教会の役員たちに辞表を提出し宣教師の職から離れるようになっていたでしょう、もし主がそうしてくださらなかったならば。ところが主はご自身の原則に忠実でした。私が宣教のために生み出すものはどんなことも完全に終わりました。そして神様が意図されたことを認識しましたので、十字架の原則は私のものとなりました。それは十字架の原則、すなわち私自身から出るものは何もないという原則でした。

骨折ることや精神や心の研究が生み出すどんな成果も神様の働きや奉仕においては通ずる手だてはありません。神様はご自身の原則に忠実なお方です。それはいついかなる時もそうです。その日から今日に至るまで宣教について悩みはなくなりました。宣教に行かせていただくことは容易いことであり、受け入れることよりはるかに容易であります。

宣教を口やかましく言うことは十字架につけられていない肉の働きであります。 そうなんです。それ以来開かれた天がずっとあるのです。もう一度この個人的なことに触れさせていただいたことをお許しください。しかしこのことは本当に起こったことなのです。十字架の原則はあらゆる分野に通用する原則であります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003110.htmlですが訳に自信がありません。原文の読める方は是非原文と照らし合わせてください。なお、このテーマのところは過去二回載せています。一つは1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」もう一つは3/3「わたしのことばは火のようではないか」です。これらはいずれも1954年のイースターで語られたメッセージです。さて、この70数日間の翻訳を通しても一度も自己を語る場面に出くわしませんでした。そのことを極力避けているようにしか思えないスパークス氏ですが、ここでは珍しく証をしています。カインとアベルという能力ある人間と何も持ち合わせない無力な人間の対比と言う観点で論が進められ、その例を聖書中に、洪水とノア、エジプトとイスラエル、バビロンとイスラエルの残りの民、ローマ帝国と初代教会のクリスチャンたちと探りながら、エジプト、バビロン、ローマ帝国はそれぞれ繁栄を誇ったが今や見る影もない状態になっていることを指摘し、再びカインとアベルに戻ります。そして全く無力なアベルに対して人の間でもてはやされ自信を持ったカインの方が主なる神様に退けられた次第が述べられます。そして次のように十字架の原則が歌われるのです。"Not the labour of my hands Can fulfil Thy law's demands; Could my zeal no respite know, Could my tears forever flow, All for sin could not atone." 何もできないことそのことを深く認識すること、それが「十字架」だと知らされる深い霊的感動を覚えさせられる場面です。そしてしばらくして今日の箇所が語られているのです。)

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