2011年3月19日土曜日

目が見えるようにしてください

わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(新約聖書 黙示3:18)

私たちは自分の生活において見えると思い、知っていると思っている全ての事柄を点検しなければなりません。あなたも私も私たちが霊的知識だと思うものをたくさん持っているかもしれません。すべての教義も心得ていますし、真理を体得していますから(と言うかもしれません)。福音的な教義の指針を持つことは出来ます。でもその結果はどうですか。

愛する皆さん。もし私たちが変えられていなければ、それは真に霊的な意味から言えば見えることではないのです。 そうなのです。見えるということは変えられるということです。もしそうでなければそれは見えることではないのです。私たちがそれらすべてのものが剥ぎ取られ、ちょっとした違いを生ずることが本当に見えるところまでとことん連れて行かれるならはるかに良いでしょう。

私たちはこのことに関して神様に対して大変正直であらねばなりません。私たちは、その90パーセントが何の重要性もない山のような全知識よりは、100パーセントである実にわずかなものをもっと早く持ちたくないですか。私たちは主に霊的いのちを越えて前進することから守っていただくように求めねばなりません。前進とは知識を伴うこと、知識につけ込んでくることを私は言っているのです。

あなたは私の言わんとすることがわかるでしょう。本当に見えることは、パウロが言うには、変えられることなのです。そして変えられることは主である御霊によって見るように見ることなのです。だから私たちは見えるように祈りたいです。

遅すぎて霊的視力を得られないということは決してありません。たとえ見えなくても、またどんなにその(見えない)期間が長くても、私たちが主に対して本当に真剣であるならばです。けれども、このことは神様に対して正直であらねばならないことだということを忘れてはいけません。

主イエス様はナタナエルに驚くべきことを言われました。ナタナエルは二重の盲目になりかねない危険性にありました。彼が一般的な偏見を言い表してしまった瞬間、彼は大変危険なところにいたのです。彼は言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」それは一般的な偏見です。偏見が多くの男女から神様のより完全な考えを奪って来たのです。偏見は多くの形態を取ります。用心しましょう。

けれどもナタナエルは救われたのです。主イエス様はおっしゃいました。 「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)「いまに(これから先)」とは主がおっしゃるのはもちろん御霊の日であります。「主である御霊によって」ナタナエルは見えるようになったのでありました。そうです。彼は危険なところにいました。しかし彼は逃れたのです。

もしあなたが偏見によって危険地帯にいるなら、注意してください。そして偏見を捨てて心を開いてください。主に対してヤコブ的(自己中心的)なもののない、ずるさのない、心を開いた一人のイスラエル人(ナタナエル)のようでありなさい。そうすればあなたもきっと見えるようになるでしょう。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003099.htmlです。 ナタナエルの記事は私にとり一見わかりにくいところでした。でも主イエス様が私たちの思いを全て知っておられることに留まる時この箇所は途端に魅力的なものになりました。私たちそれぞれが、教会に行っていようが、行っていなかろうが、そんなことよりも、主が天から私たちの一挙手一投足をすべてご存知だということに気づくなら、私たちの生き方は随分変わるのではないでしょうか。だから震災も原発の問題も主の御手にすべては握られてのことではないのでしょうか。そのお方に祈ることが「目が開く」ということではないでしょうか。なお、今日の箇所は1/27の「私は見える」という題の箇所と近接しているものです。)

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