2011年3月23日水曜日

すべてのすべてとなられた主イエス様

満開の 椿教える 刹那の美 イエスキリスト 花愛された
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(新約聖書 コロサイ3:11)

愛する皆さん、十字架の目的は主イエス様がすべてであり、すべてのうちにおられることを私たちにわからせるためになされたのです。だから次のことはまちがっているでしょうか。つまり主イエス様が私たちに働きかけ、十字架を通してイエス様の死と葬りにあずかるようにしてくださった方法のゆえに、私たちが以前決して知る由もなかった方法で、今はイエス様を知っているということ、がです。(いや、まちがっていないでしょう)主が私たちに対して、また私たちの心のうちに今までよりもはるかに親しいお方となってくださったのはその道(十字架)によるのではないでしょうか。

主イエス様が私たちのうちに、また私たちにとって大きくなられるのは十字架の道によってなのです。私たちは私たちの最大の敵が自分自身であり、肉にあることをもっとも熟知しています。この肉なるものは私たちに休息を与えません。平和も満足も与えません。肉のうちには喜びがないのです。肉は私たちの生活のあらゆるところで私たちから生きる喜びを奪うことに専念し、絶えずそのことをみせびらかすのです。

肉が処理されるためにどんなことがあるのでしょうか。いいでしょうか、十字架のうちにいること、また十字架によって私たちは自分自身から解放されるのです。私たちの罪からだけでなく、私たち自身からもなのです。私たちは自分自身から解放されて、キリストの中に移されます。 キリストが私たちよりもはるかに大きくなるのです。それは痛みを伴いますが、祝福された結果になります。

私たちの間にあって、もしこの線に沿って最大の苦難を経験された方がおられるなら、私は確信するのですが、苦難を通して主イエス様を知り、その豊かさを経験することになった、そしてそのことはあらゆる苦難にまさって価値あるものだったと証言してくださることでしょう。だから、十字架によって、私たちに対して、また私たちのうちに主が働かれるのは、主イエス様に私たちが心を明け渡すようにされていることなのです。それが神のお考えのうちにあることであります。

( 今日の箇所は Christ - All, and In All の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003103.htmlです。昨晩から今朝にかけ、幾度地震があったことでしょう。自然界、特にこの大地がこんなにもろいものだとは。主イエス様は浅はかな私の思いをどのように思っておられるのでしょう。長い長い蕾の中でじっと開花に備えていた椿が次々と花を咲かせています。「あなたがたのうちのだれが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」ルカ12:25~26

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