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2017年1月8日日曜日

御霊を通して証しする民

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)

 私たちは御霊にしたがってキリストを知ることができるだけです。その結果この主の摂理にあっては、私たちにとってのキリストは私たちがキリストについて知っているかそれともキリストと関係を持つことができるすべてのことは、ただ御霊にあってのみ可能だという意味で霊的です。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5:16)

 キリストは御霊にしたがって知られるのです。私たちの力は霊的なものです。戦いの武器は霊的です。すべてのものは上から私たちのところに来なければなりません。敵の一つの大きな努力、すなわちこの摂理を貫いて何度も何度も成功するものですが、それは神様のものをこの世に対する愛着、この地上に対する愛着、地上ですべてのものをひとかどのものとするために引き降ろし続けて来たことでありました。

 あなたはヨハネを読んであらゆるものがどのように世に引き寄せられていないか、またあらゆるものがどのようにこの世から聖くされ引き上げられるかを知る必要があります。万物はキリストが天におられ、主の民は地上にいるが、地上にいない、地上では知られておらず、この世にあって、しかもこの世にはいない、また世に関する限り、この世にあって認められてもいず、知られもしない不思議な民という事実と結び合わされているのです。しかし、そのまさしく手段によって、そしてそのまさしくその理由、最大の潜在能力に向かって、この宇宙は知っているのです。この地上にあって霊的な隠された秘密の神の民を。

 キリスト教を把握し、型にはめ、作り上げ、組織化し、具体化し、地上で何か力ある運動とすること。人が見たり、認識したり、賛同したりするようなすべての連合をともない、地上に根づくこと。この世の通常の意識に何かの存在として登録すること。そのすべてが神のみことばと正反対であり、霊的ないのちと力の正反対なのであります。

 キリストは天におられます。私たちは天の御国にキリストとともに引き上げられ、移され、御座にともに着座するのです。私たちのこの世の目的は証しだけなのです。その証によって他の人たちは諸国民から引き出され、主の御名を持つ一つの民とされるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003006.htmlです。今日の英文は省略が多く訳出に難航を極めました。末尾の文章に辿り着き、やっとスパークスの真意がつかめた思いがします。読者諸兄のご指導[誤訳の訂正]をお願いします。ただ最後の文は今日たまたま家庭集会でメッセージする恵みに預かったが、そのおり引用させていただいたベック兄のメッセージ『主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。』と一致する内容があり、今改めてその意味の深さを知った思いでおります。)

2011年9月30日金曜日

まことの神が示される彼岸の世界

この地に住み着いて、かれこれ30数年経つが、この一帯は初見であった。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。(新約聖書 1ヨハネ2:17〜18)

(ヨハネは終わりの時に対して「小さい者たちよ。今は終わりの時です。」(1ヨハネ2:18)と書きました。それなのに、彼はその終わりの時に始めを持ち出したのです。「初めからあったもの、・・・」(1ヨハネ1:1)しかしヨハネがこういう時のしるしを感じている一方、彼は永遠なることに関心を払っています。ですから私たちは始めへの言及と終わりの時への言及の間にいつまでものこるものに対する言及がなされていることを知るのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:17)したがってヨハネの手紙には、始まりがあり、最後の時があり、「永遠」が書かれているのです。
 そのことに言及するのは手紙がふくんでいる全てのことはそのことと密接な関係があるからです。そしてこの手紙においてはこの終わりの時の特別な性格と目的の全要素があり、終わりの時に神がいつまでものこるものを産み出そうと意図されていることがあるのです。もちろん、ヨハネの手紙にはパウロをとおして私たちに示されたような奥義の完全な順序はありません。しかし私たちは終わりの時のすべての霊的な要素、神の私たちに対する取り扱いを支配している重要で根本的な霊的実在を手にしているのです。
 たとえば、まことの人の子としてのキリスト、かしらとしてのキリス トです。交わりという点ではキリストにある神と私たちは一体であります。また、私たちはイエス・キリストの血潮、神の御子、みことばと御霊という重要で支配的な実在を知ります。さらに永遠のいのちという重大で基礎的な原理、反キリストのうちにあるサタンの偽りの働き、信者の交わり、お互いの間の愛について言われていること、きよいいのちを知るのです。確かにこれらはこの特別な終わりの日に人々とともに神の働きをしなければならない重要な要因であり霊的な要素であります。
 第一の私たちの考察はこの文頭の意義にかかわることです。「初めからあったもの」私たちは終わりが初めによって支配されていることを大変注意深く認識する必要があります。そのことを考慮に入れ、心に留めることは大変重要なことです。「小さい者 たちよ。今は終わりの時です。・・・」終わりの時に関連して、初めからあったものが完全に現されるのです。ヨハネが見ていることは明確にかつ容易に体験され得るということです。別のことばで言えば、ヨハネはこう言っているのです。「小さい者たちよ、私たちは終わりに来ています、終わりの地点に立っています。今私たちは到達したもの全てが初めからのものであることを知りたいのです。それは終わりの時に初めの良いもののうちに立っていることができるようになるためです。また初めに出現したものが終わりに損なわれることもなく、弱められることもなく、完全に明確にここにあるようにというためです。
 ヨハネの言わねばならない全てのことは(小さな範囲に大変多くのことが集約されているのですが)初めにあったものを詳細に調べることですが、その始まりは終わりの民にあっては損傷することなく見出されることが約束されているのです。その道筋を取るように導かれるに際して彼は事実上次のように言うのです。「私たちは将来さばかれます。すべてのものが始めにあったことによって終わりの時にさばかれるのです。私たちは終わりの時にその基準に達しなければなりません。そして終わりの時にその光の中に十分立ち続けなければならないのです。」
 さあ、それでは手短に出来る限り、その重要性を把握出来るように分けて考えましょう。(中略)

 今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。)

地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それはなくなることでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。


私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらからでさえ、そこから救い出して、主御自身のもとへと行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003383.htmlで す。この文章はこのブログでも何度か登場したもので、今日の該当箇所はこの文章全体の末尾に当たるものですが、すでに5月13日に「天に属する民」という題で訳しているものです。その後4ヶ月は 経っているのですが、訳業は進歩せず、逆に今日の時点で訳してもそれ以上の訳が見出せませんでしたので、その部分は再録することにしました。ただしこの一 章の冒頭部分を今回は増し加え小さい文字で掲載してあります。お読みいただければ幸いです。なお中略の部分で小見出しで以下のことが語られています。「始まりが終わりの支配的基準である」The Beginning Remains the Governing Standard to the End )「特に強調しなければならないこと」(A Special Emphasis)「神の始まりであるキリスト」(Christ as God’s Beginning)「天の啓示」(A Heavenly Revelation )「天にある満たし」(A Heavenly Fulness )「キリストはすでにすべてのものを集め、天に移されている」(Christ has Gathered up Everything and Transferred it into Heaven))

2011年7月26日火曜日

天にある満たし

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

これまでキリストが天の啓示であると申し上げてきました。しかし、キリストは天の満たしでもあるのです。もし神が、御心を、すなわちキリストにある神のお考えを明らかにされてきたのなら、また神が意図されたすべてを、私たちに人としてあらわれた方の啓示をもたらすことによってなされたのであったら、神はその実現と達成のためにキリストにあるもっとも十分な備えによってそのことを続けて来られたのです。ですから、私たちのあらゆる必要はキリスト・イエスにある(天の)栄光の富に応じて備えられているのです。

キリストにあっては、一つの標準だけでなく、神の基準に達するあらゆる種類の備えがあるのです。神の目的に達するために神の隠されているすべての富は、私たちのためにキリストのうちにあるのです。もしキリストが十分に神のみ心を明らかにされて来たのなら、それは同時にまた十分に神の富をも明らかにされて来たということです。すべての満たしはキリストのうちに宿っており、私たちはキリストにあって満ち足らせられたのです。(コロサイ2:9)

もし神がその神の基準を認識するためにあらゆる備えをなさっておられなかったとしたら、終わりの時に私たちを決して啓示される基準によって裁かれることはできないでしょう。 

(二つのことがらが相伴うのです。終わりに私たちは裁かれます。裁きは神の家において一つは神の御心の啓示から見て、そしてもう一つは神の富の備えの見地からであります。
 次に述べるのが(差し当たりは最後ですが、重要さの点で決してどうでもいいことではありませんが)このことです。キリストはすべてを集め、天にまで移されたのです。)

神の考えは天にあるキリストが中心です。そして神の富は天におられるキリストに集められています。そのことはこの終わりの日に主の民は基本的には天の住民であることを意味します。そして私たちが天の住民になるまでは神の考えに到達したり、キリストにある神の富を知ることは不可能であることを意味するのです。

もし何らかの方法なり(そして今は主の民に話しているのであり、キリスト者のいのちと呼ぶいのちについて話しているのですが)何らかの手段で私たちが地につくものであるなら、その手段で神の考えに到達し、神の富を知ることは不可能なことでしょう。神だけが基本的に天にある富を供給し、実際に与える責任をお取りになります。そして天にある物の計りにあって、それだけに神は責任を取られるのです。もし何らかこの世とつながり、この世の仕組みの一部となり、この地上との関係があるなら、そのこと自身で自ら重みあるものを運び、そのもの自身の源泉を探し、そのもの自身の方法を見通す責任を取らねばなりません。                                   (6頁)

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003294.htmlです。今日の箇所は誤訳がたくさんあると思います。是非、読者の方から訂正の文章を表示していただきたいです。英語のど素人の訳をおめおめとブログとは言え載せていることに恥ずかしさを覚えます。)

2011年5月13日金曜日

天に属する民

天を向く 山帽子雨 も光も 上から受ける 術(すべ)心得て
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけです。(新約聖書 マタイ23:9)

恐らくは、あなたも私もまた主の民も、いずこにあっても、終わりの時に何よりも知っていなければならないことの一つは私たちが天に属するものであるという事実でありましょう。あらゆることにおいて試されることでしょう。しかし、その試みは目的を治めているのは始めにあるという法(のり)によって、すべてが主の御名を必要とするものであります。

始めから、主の民は天国の民であり、キリストによって天にある彼らのためにはすべてが備えられており、天にあるキリストから引き出されるものでした。すべての彼らの支配、道筋、力はキリストから生じ、天にあるのと同じように、キリストのうちにありました。主は戻って来られ、再三再四その始めによってすべてのものを試され、終わりには、その試みは非常に厳しく適用されるのです。私たちはことがらのうわべの形を見ている者です。それらは地上のものであり、人が造り、人が組み立てたものであり、霊的なものの模造品か代用品であって、まさしくその根本において壊れ、ふるわれるものであります。私たちの働きである組織は壊されるものであります。国家においてもその枠組みは破壊されることでしょう。ただひとつ残されるものは主の民に他なりませんが、彼らもまた恐らく散らされることでしょう。

その時、この中でどれだけが地上にあってキリスト(のもの)であるかが試されることでしょう。もし、頼るものが、秩序や教会や機構であり、さらにはそれが集会や修養会であっても、その多くのものがそれ自身がキリスト者生活を支えるもののように見えるものだったとすれば、それらが消え去り、壊される時、疑問がわきあがってくることでしょう。ここにキリストのどれだけが存在するのか、またキリストの基準は何であり、天におられるキリストとはどんな人なのか、と。

あなたがたは、かつてそれがどれほど弟子にとっての危機であったかを知っています。弟子たちは三年間主とともにありましたが、表面的な分離(にもかかわらず)、依存、感覚的な生身の体にあるつながりがありました。日々の生活の中で彼らは幾分かは大言壮語を言うこともできましたし、大きな罪の告白や信仰の告白をすることができました。また主については主がどなたであるか、主について自分たちがどう思っているか、何を信じているか、自分たちは主に何をしたいかを公然と言うことができました。

その時に、主が彼らから取り去られたのです。一体何が残されましたか。(もはや)キリストはおられません。いのちはありません。生きる目的がありません、すべてのものがなくなったのです。感覚的ないのちが消え失せ、外面的な秩序が終わり、何ものも残されなかった時、彼らは絶望し、その信仰は失せ散じました。

今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。(地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。

問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それは消えるでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。

私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらでさえ、そこから救出して、主御自身のもとへ行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。)

(該当箇所http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003182.htmlよりやや長目に訳しましたが、この文章はまさしく That Which Was From The Beginning - Chapter 1 の第1章の末尾にあたる文章です。)

2011年4月12日火曜日

天からの啓示にそむかず・・・

震災一月目の昨日は曇天から一転雨模様になった。直前古利根川の小学校近辺で見事な桜に出会う。その後電車に乗って出かけたが、車内で地震にあった。東日本に繰り返される地震一体いつになったら終息するのでしょうか。
主が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)

私にはわかりませんが、使徒たちは、もしパウロが会いに行っていたとしたらどんなことを言ったでしょうか。けれども、パウロが経験した啓示を持たず、またパウロが異邦人の使徒として召命を受けたのに、受けていなかった使徒たちは、パウロが経験したことに対して穏健になりなさいとか注意しなさいと助言したかもしれません。彼らはパウロに、あなたは騙されているのではないか、その導きは間違っているのでないか、よくよく考えなさいと話したかもしれません。こんなことは以前何も経験しなかったからです。(このことに関してパウロは独断的だと言われ、それゆえ偏向的に受け取られたかもしれません。)

交わりはつねにいいことでありますし、体験は役立つという点ではつねに用いられるべきものであります。それに対して、心から話をし主の道が私たちのためであることを大変明確にすることが主にとって問題である時、私たちは主に対する応答をいかなる方法でも自ら区切ってみたり、主への服従を妨害するような影響によって屈服させられないように、大変注意深くあらねばなりません。

あらゆる決まりからの孤立があり、天からの啓示をおとしめることでしょう。もし本当に他の人々が御霊の支配下にあるなら、助けになるでしょうが、天からくる幻を実際に目の当たりすることにあっては肉による完成はなされないことに注意しなければなりません。私たちはしきたりに問うてみたり、常識的に受けとめられることは何なのかと尋ねたりするかもしれません。一般に受けとめられることを重視するなら、あなたは後退することでしょう。

主はあらゆる方面の単なる自由契約者には反対されます。主の命令は主のからだ(すなわち教会)にある交わりです。それにもかかわらず私たちが主が私たちに言って来られたことに関して、ある種の生来の影響に屈し、人や物を支配する要因から勧めを受け入れ、自分たちで方向を定めるなら、自由をなくし、おそらくは天からの幻には従わなくなるでしょう。こんなふうにして損なわれた生涯の数々を私たちは知っています。

もし主のことで交わりがあるなら、交わりを用いましょう。けれども私たちはその上で次のことを確信させていただきましょう。私たちは外面的に物事をとらえないということ。また光のうちになかったり、いのちのうちになかったり、天的な良きことでなかったりする影響には屈しないこと。最後に完全に聖霊の支配下にあること以下の何ものからの方向づけも受けないこと、以上であります。

(今日の文章は That Which Was From The Beginning - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003143.htmlです。訳者の英語力のなさで誤訳の恐れを覚えます。文章全体はアブラハム、モーセ、ダビデ、エチオピアの宦官、コルネリウスなどの例をあげ首肯的であります。以前にもこの文章からは訳してあります。2/11「信仰とは啓示に従う道」というのがその題名です。今日の文章の前の方に当たります。今振り返ってみるとそちらの方の文章も今だったらこんなふうには訳さないのにと思ったりするところがあります。一年のちに、もし許されれば推敲し直したいです。とうとう原発はチェルノブイリと同程度と見なす発表がなされたようです。ショックです。でもこのことも主から来ていることです。厳粛に受けとめて自己のなすべき責任を主から教えていただきたいです。東北の被災者の方々の上に心から主の上からする慰めがありますように祈るばかりです。)

2011年2月25日金曜日

Christ in heaven

紅梅の 色鮮やかに 古希迎えし 我がはらから と語りし日(彦根城馬門) 
「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(新約聖書 ヘブル12:26)

すべてのものが地においても天においても揺り動かされます。そのことを通していかに生きておられるキリストの支配が貫徹しているかをわからせるためにそのことが現在するのです。当時のユダヤの信者たちは神殿や神殿を支えている全システムが崩壊されて行くのを目の当たりにしました。その結果彼らは自らがどれほどキリストから恩恵を得ているのか、また自らの生活がどれほど地上の事どもに縛られているかをよく熟知したことでしょう。彼らは神殿やそれにまつわるすべてが消え去って行った時、残されるものが何であるかを知り得たことでしょう。

神様が揺り動かされるのはユダヤ教だけではありません。ここで言われている天そのものも揺り動かされるのです。神様は将来天地を揺り動かされるでしょう。その揺り動かしによって地上のシステムが崩壊し、なかんずくキリスト教が天的なことがらの代理者を自認していることが試される時(と申しますのはキリスト教はユダヤ教がそうであったようにそのように自認することによって発展して来た宗教ですから)、私たちが残すものが明らかになるでしょう。

人々は新約聖書にしるされている地上の代表者を教会や宣教や教会制度の啓示だとして参りました。だからすべてのことが試されるのです。と言いますのは多くのことが今やそのるつぼの中にあるからです。論点は天と地の揺り動かしです。その結果一体何が取り残されたのでしょうか。焦点はキリストにあります。

私たちが言って来たことをあなたがたが好まれるかどうか、また同意されるかどうかは私には気になりません。けれども、私は、私たちにとって、天におられるキリストがいのちであり、すべてであり、この地上ではキリストに代位するものは何もないということは是非ともお伝えしたいのであります。

神様はすべてのことがらをキリストに代位する目的をもって動かされます。神様は永遠の昔から万物においてキリストが卓越しておられ、完全な満たしを備え、何者もイエス様の前では栄光のあらわしようがなく、またその地位につけるものはないように定めておられました。

主なる神様は(このような)もっともっと大きなキリストの量りの中へと私たちを導いて下さり、かつ、そのキリストを私たちの中に招き入れてくださるお方なのです。

(今日の記事は That Which Was From The Beginning - Chapter 2 の抜粋引用訳です。訳は例によりいい加減です。またこの文章は結論部分にあたりますので、読者にはすべからくhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003055.htmlの原文を確かめられることをお勧めします。昨日の話の続きだが、叔母の葬儀の読経は私の中学一年のときの数学の先生であった。ところが今もそのおり何度も聞かされた読経が音の余韻となって脳裏に残った。一方遺された叔父を親族が皆気遣っていた。そう思って今朝のこのスパークス氏の文章を一章から通読していたら、二章の始めの方に次の件があった。If you heard that word spoken into your heart by the Holy Spirit repeatedly, "Heavenly! Heavenly! Heavenly!" you would say, "Now what is the Lord trying to say to me? What is my danger? Where am I?" というようにheavenlyがスパークス氏によって三度繰り返されていた。叔父やいとこたちとともにこのheavenlyをともに共感したい。NZの地震と言い、今日の箇所は不思議な思いで読ませていただいた。)

2011年2月11日金曜日

信仰とは「啓示」に従う道

去年の今頃この図書館を初めて次男のお嫁さんに連れられて見学した。一年、あっと言う間だ。
巴里の空 日本の空も 一つなり われら神の子 神の家族だ
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(新約聖書 ガラテヤ3:25)

時々、啓示は私たちに物事はほんの暫定的なものにすぎないという事実を教えてくれます。パウロ自身がサウロと言っていた時を取り上げてみましょう。ユダヤ教に関する限り彼の純粋性は正しいものでした。モーセのことばに照らし合わせても間違いは少しもありませんでした。様々な事柄の中で「木にかけられる者は誰でものろわれている」神にのろわれているというこの一事をふくんでいるのが(それまでの)神の啓示でした。

タルソのサウロはナザレのイエスが木にかけられたこと、そして「なぜあなたはお見捨てになるのですか」と叫ばれた事実を確かに見もし、また知っておりました。そのことはサウロにとってイエス様が神様にのろわれたことの何よりの証拠でした。だから十字架から出て来るどんなことも抹殺されねばならないことでした。ユダヤ教はその目的に仕えていました。ところがその終わりがやって来て、今や他の何かが入って来たのです。より偉大なこと、より完全な神様の啓示が入って来たのです。今までの啓示は部分的なものだったのです。

パウロ(キリストを信じたサウロの後の名前)はこのような暫定的な事柄は、私たちにキリストを紹介しキリストに導く「教師」だと指摘しています。タルソのサウロにとってのテストは、彼はある程度はそれまで正しかったことに反して、それは彼を他のものに導こうとするものにすぎなかったという事実の光に、これから自分が果たして合わして行けるかどうかということに関してでありました。

権威をお持ちの主は、私たちが暫定的なものであるにすぎず、神様の究極的で完全なお考えでないものへ私たちが向かって行くのをお許しになります。それは私たちをある地点まで導くはずです。そしてその与えられた地点で他のものが入り込みます。そのところで次のように私たちに言わせる啓示が与えられます。「そうだ。これは目的を達成するものだったのだ。だが、今や終わりになって、さらにもっと大きな満たしへと導かれているのだ。」主だけが私たちを別のものに導かれるのは、私たちが主が導かれ究極のことをなされると言うことにどれだけ真剣かどうかに関わっています。

神様に用いられ、恐らくは祝福されてきたことを振り返る際にかなりしばしば多くの人は言います。「そうだ。そういうことを言うなら、私たちはその方法にしがみつき、そこにとどまるべきだった」しかし、必ずしもそうではありません。パウロにとって挑戦となったことは今や彼が見た光の中で、より十分な啓示をともない、彼がそこから離れ、より完全な啓示の満たしを求めて、それに従う備えがなされるかどうかということでありました。

こういうすべてのつながりを通して天からのビジョン(幻)への服従の問題があることがおわかりでしょう。なぜならこの服従は犠牲が伴うからです。それぞれにあった一種の価格があります。これまで言及してきたあらゆる場合に犠牲があったことに気がつきます。価格は支払われねばならなかったことを意味します。あるいは別の言葉で言えば、困難に直面させられねばならなかったということでした。多くの誤解があったことでしょう。たくさんの一人で進まなければならないことがありました。(天からの幻を)見たことのない他の人々は後について行くことができませんでした。孤独、誤解がありました。そして天からのビジョン(幻)に従う際には多くの他の方法において困難さが生じたことでありましょう。

結局のところそれは意志の問題です。そしてそれがそうなら、キリストにとってさらに大きな問題ではなかったでしょうか。主イエス様がなされたように父なる神様にそんなに完全に、またそんなに徹底的に、何も文句を言わずに心を合わせられた方は誰もいませんでした。主は父に即座に聞き従われ、完全に従われました。終わりにほんのしばらく、しかし厳しい深い心の葛藤が続きました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(このように)心を合わせられているのです。

(今日の文章も中々深い意味のあるものだが訳が適切でないのが悔やまれる。ただ読者の便を図って、 That Which Was From The Beginning - Chapter 3 からの抜粋引用を下の原文より前後を延ばし、長めに訳した。二月になり二回目の雪に見舞われた。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003040.html である。