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2011年4月7日木曜日

啓示をとおして

私はそれを人間から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

確信と確証はパウロのクリスチャン生活と奉仕の根本において正しいものでありましたが、それはひとえに次の一事によるものでした。すなわちパウロはすべてのことをイエス様にあって見たということです。すべてのものを・・・イエス様にあって。どんな解放が彼に与えられたのでしょうか。そうです、どんな解放が、です。私たちはこれまで度々話してきたことですが、この世は全く力がなく、狂信的なユダヤ人であるタルソのサウロをクリスチャン、そしてナザレのイエスを恋い焦がれる者とは決してなし得なかったのであります。いかなる力もこの世にはなく、そのような大転換はなし得なかったのです。しかしこんな風に、イエス様ご自身を見ることがまさしくその大転換をなしたのです。彼は解放されました。自由になりました。

あらゆる彼の書き物の中でガラテヤ人にあてた手紙がもっとも激しいものであることは驚くに値しません。キリストにある私たちの自由についてしるしたその手紙は「神様は私に御子を啓示され、その結果私はあらゆる事柄について自由にされました」ということで始まっています。あれやこれやには限界があり、そこから脱出して自由になるべきだと人々に話すことは無用であります。それは実がありませんし、無駄なことであります。実にどなたと行をともにするとも危険な道であります。

けれども繰り返しますが、もし私たちがただキリストをあらゆる神の重要性と意義と包括性を持つ方として人々に紹介し、聖霊が人々の心のうちにキリストを啓示することが出来れば、自由になるのです。そうなれば人々は二度と決していかなるものにも満足しないでしょう。それまで人々は宗教上の厳格な聖職者に制約されていたからです。パウロはユダヤ教から解放されました。それは他の何ものもなさなかったことであります。

逃れ道、自由への道、忍従の道はイエスを見ることです。学ぶことによるのではありません、すなわち数々の学校に通うことにはよらないのです。パウロは彼がかつて通った学校のすべてを・・・宗教のすべてを獲得しました。しかし、パウロはそれを学校教育によって獲得したのではありませんでした。だから、私たちも学校教育を通して獲得できないのであります。その教育の道とはクリスチャンや宗教上のすぐれた教授を指すのではありますが。しかし、私たちが言っているこの道は単なる精神的な、あるいは学問的な、または知的なものでは決してないのです。それは聖霊による働きなのであります。

( 今日の記事は Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003132.htmlです。)

2011年3月7日月曜日

イエス様を見続けましょう!

一年(ひととせ)の 間柄得し 老夫妻 玄関に桃 生けるゆかしさ
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

もし、あなたがたと私が、パウロが改宗者して間もないのに、成熟したクリスチャンとしてなした進歩のようなことをしたいなら、また彼が霊的な印象と衝撃にあって獲得した実の何ほどかを得たいのなら、また主の働きにおいて成果をおさめたように成果をおさめたいなら、一つのことが全く根本的であり、そのことをしっかり把握することです。

生まれたばかりのクリスチャンはこのことを把握し、他の全てのクリスチャンも把握します。もし、私たちが自ら自力で救いを得たり、自らの改宗をはかったり、何かを処理しなければならないとするなら、限界があるということです。

私たちは「人の子」であるイエス・キリストの光をとおして万事を見なければなりません。それは私たちがこのことを賜物としてだけ、つまり救いを賜物としてだけ、またクリスチャン生活のその他のものを賜物としてだけ受けてはいけないということです。私たちはそのことを見て次のように言うべきです。

「与え主である主に関して重要なことは何か、キリストに関して重要なことは何か、私の救いを提供してくださった主の豊かさはどんな意味を持つのか」と。

あなたがたはその点を把握していないかもしれませんが、そのことは計り知れないほど大切なことです。なぜなら、キリスト者生活の進歩やその奉仕の力のすべては、把握したり理解することから生ずるのでなく、またそのようなものとして救いを喜ぶことでなく、イエス様を見続けることから生ずるからであります。イエス様は、もうあなたがたにもわかっていただけたと思いますが、すべての神の満たしの総体であるのですから。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003066.htmlであるが、総体としての Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の文章が参照できず、訳するのに苦労しました。いくつかの箇所で意味が通じないところがありましたので意訳を心がけました。原文をもお確かめくださると幸いです。写真は先日突然ご高齢の老夫妻をお訪ねしたおり、玄関でお見受けし撮影させていただいたものです。その日は、ちょうど一年前に私どもの家庭集会にお見えになった日にあたり、私たちが今度は初めてお宅に伺った日になりました。談たまたまそのことに話が及び、お互いに顔を見合わせ喜びました。「(私たちはそのことをしかと覚えずお訪ねしたのですが、奥様が何気なく一年前の日めくりの裏の覚え書きを見るともなく読まれて、はじめてこのことが判明したのでした。その導きを指して)これもやはり主イエス様のお導きですか 」とはその時の奥様の弁でした。)