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2011年3月20日日曜日

われは目しい、耳しいなり

ムクドリの 人の気配を 全身に 受け飛び立つか かくあれよと神  
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(新約聖書 黙示3:22)

現代の著しい特徴は際立ったメッセージを持つ声が余りにも少ないということです。時代に対して明確で権威ある言葉が痛ましくも欠けています。福音を上手に伝える説教者はたくさんいますし、信仰の生き生きとした真理を身につけた闘士を私たちが欠いているわけではないのですが、悲しいことに、神様との交わりを続け、(その結果)特別鍛えられたことから生ずる命令を受けて「かく主は言われる」と語る預言者に欠けているということです。

なぜそうなのでしょうか。この宣教をたずさえるかなり多くの方が組織の中で余りにも多くの役割を果たしていることがあるのではないでしょうか。説教者を専門家としてかなり多く備える組織は、結果的に説教があらかじめ確立された宗教的な秩序や計画を準備するという需給関係に(支配されるように)なっているのです。説教だけでなく、今日私たちが組織化された形態と捉える「キリスト教」の全組織や活動に(たずさわねばならないのです)

「主のことばに迫られて」ということが預言の根本にあったり、「主の御手が私の上にあった」と言うことができた時にのみ、話すという自由や派遣(の意識)がないのであります。現代の秩序は人に絶えず話すことを求めます。それゆえに彼は何かをつかまねばならないのです。そしてこの必要性は神様が私たちの計画を提案され、その計画をかなえるように求められねばならない(実は神様はそうはされないのですが)か、説教者が絶えず起こって来る事態に何かをなさねばならないのです。

これは有害な組織でして、何ほどかの人に門戸を開き、神からのものでなく、人からのものであるものを危険かつ有害に押しつけてしまいます。この方法のもっとも深刻な観点は結果的に声、声、声、つまり声の混乱状態に陥り、時代に対する明確な神の言明をともなった意義ある声ではないということです。

あまりにもしばしばそれは結果として人々が説教をするための観点や、主題に縛られて聞いたり読んだりするようになり、物事の価値が主題の示唆することによって判断されるのです。その人は敬虔な人でしょう。またそのメッセージたるや真理でしょう。しかしこれ以上のものが(メッセージには要求されて)あるのです。そのメッセージは神様の時代を指し示すご目的にただちに関連しているメッセージでしょうか。

自ら知り、真理を確信していることを伝える多くの善良な方々がいます。しかし同時に主の子どもたちの多くは腹を空かせ、(霊的な)食べ物を与えられていないのです。今日主の民の間に存する(霊的)食べ物の問題は極めて切実なものがあります。多かれ少なかれ良き宣教がその必要を満たしていないのです。(残念ながら)知ることに関して成長はありますが、真理や奉仕を満たすもの、すなわち今に対する主のおことば、今私たちのいるところ、そして神のご計画の中で今の現在時点で妥当することとかけ離れているのです。

このことはもう一度この章の最初のことに立ち戻ることを意味します。神様は言わねばならないことをお持ちなのです。ですが、そのことは私たちを次のように導いてくれるのです。「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。」(ゼカリヤ4:1)

ここに私たちが神様がおっしゃらねばならないことを聞いて目をさまされる必要性があるのです。黙示録で「耳のある者は聞きなさい」(黙示2・7他)とあります。ラオデキヤ教会(終わりの時代を代表する)に向けては「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3・18)とあります。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた」(黙示1・12)とヨハネは言いました。神様は語っておられます。おっしゃらなければならないことをお持ちなのであります。しかし(それを知るにはパウロが私たちのために祈っているように)「神を知るための知恵と啓示の御霊(が与えられれば)、あなたがたの心の目がはっきり見えるように」(エペソ1・17~18)なるにちがいありません。

( 今日の箇所は The Candlestick All of Gold の抜粋引用訳です。以前1月29日の「啓示に身を置きなさい」という題で訳させていただいたものの前に書かれている文章です。初めて読まれる方はこの記事をこれに続いて読まれると、より意味が鮮明になることでしょう。原文はいつも通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003100.htmlです。今日は滋賀県の近江八幡で礼拝を持たせていただきましたが、震災・原発の被害のショックは関西のこの地の主を信ずる礼拝者お一人お一人の中に充満していました。あわせて震災の中で神も仏もいるものかと絶望しているお一人お一人のまことの救いのために役立つことをさせてくださいという思いが礼拝者一人一人の祈りを貫いていました。神様は私たちを「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」エペソ1:4たとあります。そのことに何の変更もないのですから、文中スパークス氏が再三強調しているように神のことばをもっともっと真剣に聞く者でありたいと思いながら、再び関東まで帰って参りました。)

2011年1月29日土曜日

啓示に身を置きなさい

ハクレンである。最近次の短歌を知った。さらに味あうべきは「天」である、と思い至った。

「葉が落ちて初めて知りぬ枝すべて天に向かうがごとく伸びるを」(後藤瑞義)
神は・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)

黙示録で「耳のある者は聞きなさい」(黙示2・7他)とあります。ラオデキヤ教会(終わりの時代を代表する)に向けては「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3・18)とあります。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた」(黙示1・12)とヨハネは言いました。神様は語っておられます。おっしゃらなければならないことをお持ちなのであります。しかし(それを知るにはパウロが私たちのために祈っているように)「神を知るための知恵と啓示の御霊(が与えられれば)、あなたがたの心の目がはっきり見えるように」(エペソ1・17~18)なるにちがいありません。

(ところが現代は)霊的な洞察力、理解力、知力、思考力はすべて余りにも希薄であります。原因は多くあります。仕事への没頭、多様な雑事。生活の多忙さ。休息を知らない時代精神。これらは、宗教儀式を重んじてその用意を徹底的に備えることとあいまって、すべて内側に語りかけてくださる神様の働きをさせないようにする傾向にあります。恐らく、私たちは聖書は単に啓示に終わるだけでなく、啓示より成り立つものであることを忘れてしまっているのでしょう。さらに深い霊的な中味は、目や耳が開かれて、別のことばで言えば目を覚まされてはじめて認識したり悟り得るものであります。

主のもっとも忠実な仕え人のなかには依然としてみことばの文字、様々な書、様々な出来事、様々なテーマ、様々な主題、様々な概要、様々な分析に心を奪われるだけで、最も深い意味で「啓示」に身を置かれない方がいらっしゃるのです。(これは非難の意味で申し上げているのではありません)精神や頭脳による働きと心や魂からする働きとではあまりにも違いがしばしば見られるからです。

前者は早かれ遅かれみことばを伝える人も伝えられる人も疲れてしまうでしょう。それに対して後者はいずれの方にとってもいのちの働きであり、いつも新鮮で疲れを知らないのです。

初めであろうと後であろうと、「神様は私に御子を啓示することをよしとしてくださった」「私は啓示を人からでなく、神から受けた」と言える日は私たちの人生にとって最大の日であります。それこそ多くの争点となる事柄の本質的な始まりであります。こういうことの一つが今特に考えていること、すなわち、ある特定の時点で神様のお考えやご意志が何であるかを知るように目ざめさせられたことであります。かような啓示は、みことばを通してでありますが、たとえ通常は犠牲を伴うものであったとしても、これ以上革命的なものは他にありません。

(今日の箇所はゼカリヤ4章にのっとり、みことばのときあかしが行なわれているA4版で9頁ほどのものであります。関心のある方は是非原文をお読みください。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003027.html
題名は The Candlestick All of Gold  です。)