ハクレンである。最近次の短歌を知った。さらに味あうべきは「天」である、と思い至った。 「葉が落ちて初めて知りぬ枝すべて天に向かうがごとく伸びるを」(後藤瑞義) |
黙示録で「耳のある者は聞きなさい」(黙示2・7他)とあります。ラオデキヤ教会(終わりの時代を代表する)に向けては「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3・18)とあります。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた」(黙示1・12)とヨハネは言いました。神様は語っておられます。おっしゃらなければならないことをお持ちなのであります。しかし(それを知るにはパウロが私たちのために祈っているように)「神を知るための知恵と啓示の御霊(が与えられれば)、あなたがたの心の目がはっきり見えるように」(エペソ1・17~18)なるにちがいありません。
(ところが現代は)霊的な洞察力、理解力、知力、思考力はすべて余りにも希薄であります。原因は多くあります。仕事への没頭、多様な雑事。生活の多忙さ。休息を知らない時代精神。これらは、宗教儀式を重んじてその用意を徹底的に備えることとあいまって、すべて内側に語りかけてくださる神様の働きをさせないようにする傾向にあります。恐らく、私たちは聖書は単に啓示に終わるだけでなく、啓示より成り立つものであることを忘れてしまっているのでしょう。さらに深い霊的な中味は、目や耳が開かれて、別のことばで言えば目を覚まされてはじめて認識したり悟り得るものであります。
主のもっとも忠実な仕え人のなかには依然としてみことばの文字、様々な書、様々な出来事、様々なテーマ、様々な主題、様々な概要、様々な分析に心を奪われるだけで、最も深い意味で「啓示」に身を置かれない方がいらっしゃるのです。(これは非難の意味で申し上げているのではありません)精神や頭脳による働きと心や魂からする働きとではあまりにも違いがしばしば見られるからです。
前者は早かれ遅かれみことばを伝える人も伝えられる人も疲れてしまうでしょう。それに対して後者はいずれの方にとってもいのちの働きであり、いつも新鮮で疲れを知らないのです。
初めであろうと後であろうと、「神様は私に御子を啓示することをよしとしてくださった」「私は啓示を人からでなく、神から受けた」と言える日は私たちの人生にとって最大の日であります。それこそ多くの争点となる事柄の本質的な始まりであります。こういうことの一つが今特に考えていること、すなわち、ある特定の時点で神様のお考えやご意志が何であるかを知るように目ざめさせられたことであります。かような啓示は、みことばを通してでありますが、たとえ通常は犠牲を伴うものであったとしても、これ以上革命的なものは他にありません。
(今日の箇所はゼカリヤ4章にのっとり、みことばのときあかしが行なわれているA4版で9頁ほどのものであります。関心のある方は是非原文をお読みください。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003027.html
題名は The Candlestick All of Gold です。)
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