2011年1月19日水曜日

「主イエス様の栄光の目撃者」より

スイス・アルプスの山々 2010.10
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17:5)

思うに、主イエス・キリストがかつてお持ちであった栄光をいかに心の中に保たれ、そのことを切に求められ、祈られたかは明らかである。このところが、ヨハネが(その福音書で)大変緊密に触れている点である。ヨハネはその福音書の17章でその主イエス様の祈りを記録している。は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」この祈りは、主イエス様が、かつての消えることのない栄光を意識して歩んでおられることを私たちに明らかにしている。主イエス様はご自身にあって栄光を保たれ、それゆえに栄光についてご存知であった。何と素晴らしい考えであろう。以前のその栄光を意識され、つねに主は栄光に戻る日を待ち望まれ祈っておられたのだ。

変貌山上のできごとは、その主が心からなされる祈り、叫びに対する答えとなっていたのだ。つかの間の父なる神様との触れ合いではあったが、主にとって恐らくキリスト者がその生活において少し経験するものの一つであった。主はちょうど(いい具合に)事をなさる。過ぎ去っても、そのできごとによってあなたの願いは聞き入れられていることを知るであろう。あなたも知っているように、父なる神様はあなたの必要や今置かれている状態を心から同情してくださるお方だ。それは一日、一晩、あるいは一時間かほんの少し続き、それから過ぎ去ることかもしれない。道の終わりはまだないし、とこしえに続く栄光もまだ来ないが、その道に主が触れてくださることにより、私たちに何かがもたらされるのだ。

私たちは主が聞いておられたことを知っている。また主が心の中で私たちが叫ぶことや願うことを考えて、同情してくださる証拠を知る。それは主イエス様と父なる神様とのあいだと似たものであった。それこそ(この変貌山のできごとにあらわされた)主ご自身の叫びに対する答えであった。

By T. Austin-Sparks from: Men Whose Eyes Have Seen the King - Chapter 1 から引用。今日の箇所は「王を目撃した男たち」という題で書かれている文章の最初の部分に過ぎない。実はここで言われている男たちとはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人であり、主要テキストはマタイ17:1~21である。「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」マタイ17:1~2とあるのが変貌山のできごとである。この時に一緒にいたペテロはこの不思議な出来事を記録しているが、一方ヨハネは記録していないように見えるが上述のように十字架を前にした主の祈りが間接的にこのことを明らかにしているとし、その深い意味をオースチン・スパークス氏は明らかにしている。読んでいて、主イエス様がどんなにまことの人であり、また神であるお方であったかを知る格好の文章になっている。試みの中にある者に対する大きな励ましである。主イエス様をもっともっと聖書を通して知りたいと思う。)

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