2011年1月20日木曜日

「教会」は主にとって「宝」

「ななかまど」 スコットランド・エジンバラ 10.10.3
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3)

主イエス様は宇宙や全被造物の支配権を持っておられたが、今や十字架によって、全被造物の中から宝を取り出すために特別にその宝(である教会)に集中されている。今このような時に生かされていることはすばらしいことである。

「天の御国は、(ここは天は複数であらわすべきだが)畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

主は教会に対して密かな働きをなさる。だから、私たちが教会だと思うことを、人目につく場所に出て行き、公にすることは常に危険である。真の教会は人の目には隠された密かな交わりであり、働きもそのようにしてなされる。それが教会の安全である。あなたも私も勇んで出かけて行き、宣伝したり、陳列品を並べるような立派な目に見える働きをするなら、私たちが神の働きをさらすことになり、果てしない危険に道を開くことになる。私たちは神様が私たちをご自身とともに隠された密かなところに置いてくださっているところに留まるべきである。それが安全というものだ。

このいのちの(歩み)を通して私たちは次のことを学ばねばならない。すなわち私たち自身が神と関係があるという状態から変えられて、私たち自身のうちに神ご自身がおられるという状態に変わることだ。たくさんの人は私たち自身が神と関係があるというところにいる。依然として、私たちの心の中に神の事柄に従事するという思いがある。私たちはそれらの思いが神の考えであったり、神の精神性であると思っているかもしれないが、依然としてそれは私たち人間の思いであったり、人からするこれが神の事柄だと思うことが大部分なのである。

私たちはつねに神の心はそんな私たちの思いとは別であることに気づくであろう。私たちは、主イエス様についての新しい見方に道を譲らねばならない。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003018.htmlの私訳です。)

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