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2011年8月28日日曜日

聖書はいのちの書です

実のある木 プルンを食べた 懐かしき 南ドイツを また歩きたし
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(新約聖書 ヨハネ5:39~40)

(キリストは聖書を知らなかった人々には話をされませんでした。聖書を知っており、聖書が保持しているすべてを知っている人々に語られました。そして彼らの幾人かの場合には、かしらであるキリストとほとんど3年以上交わりがありました。あらゆるものがありました。教え、偉大な教え、素晴らしい教え、宗教的な教え、預言、そして約束、そして(御国の)相続など、あらゆるものです。広範な聖書知識のすべてがあり、それに加えてこのイエス様ご自身との個人的な交わりが時を越え、イエス様が言われたことを聞いたところ、言われたすべてがあ りました。彼らはイエス様がなさったことを見たのです。しかしそのすべてにわたっていのちあるものが欠けていました。それがその要点ではないでしょうか。・・・)

あらゆるものの価値はその価値が生きているところにあります。聖書の価値は私たちが聖書を知り、自由に操り、説明を(素晴らしい説明を)するところにはありません。また聖句を見事に、正確に引用するなど、その手のことができるところにはありません。キリストの仲間、クリスチャンという名がつけられることにもありません。またこの偉大な(御国の)相続や教えを保持することでもありません。そうではなく、それ自身があらゆる仕方で生きているということです。すなわちキリストのこのよみがえりのいのちが明らかになるべきであります。彼らはそのことを全く経験していませんでした。残りすべてを持っていても試練に会った時どうにもならなかったのです。それは言い方は強いですが、言うのはきついです。(That is a strong thing to say, it is a searching thing to say.)あなたはクリスチャンの言い伝えとたくさんのクリスチャンの教えを身につけており、恐らく聖書を非常に良く知っておられることでしょう。あるいはあなたがなすこと、恐らく仲間内で多くの役に立つことを考えておられることでしょう。しかしその問題が生ずるのです。あなたはそれを全部知っていますか。またあなたはそれを全部、すなわち教え、真理、聖書知識、交わりを全部獲得していますか。それはそういうことではないのです。あなたはすべてのものを持つこ とはできるが、あなた自身がすべてのことにおいて生きた要因となるこの何か生き生きとしたものによって刻印されていないことはあり得るのであります。あなたは依然として乗り物で言えば乗客的存在であり、恐らく寄生的な存在でしょう。あなた自身、本当はその価値のうちにいないのです。そのことについて正直で ありましょう。私たちはこのことを自分の問題として立ち向かう必要があります。

その答えは復活にあります。それがこれらの人々に対する答えでありますが、私たちにとってもそれが答えです。私がこのことによって言おうとしていることは歴史的事実やクリスチャンの信条の一部ではないということです。復活は歴史的な事実であることはもちろんのこと人を生かす原則であります。それは強力な力として知られたり、経験されたり、そして目的に向かって貫通するのにふさわしいと絶えず表現されるものとして先行しており、持続するものです。それが復活であり、その答えがそこにあるのです。それは復活は単にイエス様とともに起こっただけでなく、私たちのうちにあって起こり、私たちの内側に起こったことであります。イエス様のよみがえりのいのちによって私たちがイエス様と一緒によみがえらされたということを知らせる先ほどのことと同等のものがあります。そしてそれはまた単なる教義ではありません。それは本当であり、生きた真理であり、相当の昔にエルサレムにあったことはもちろんのこと、私たちに今起こることであります。単なる歴史や伝統ではなく、それは経験であります。

(歴史は私たちに何を教えますかということを尋ねられた時、誰かが歴史は私たちに歴史が何も教えないということを教えるのだと答えたということです。そしてそれは大変うがった言い方です。過去の戦争の歴史、それが私たちに教えたことは私たちに何を教えますか。「歴史は私たちに何も教えないということを教えるのです」そしてそれはあらゆる実際的な目的や完遂にとってキリスト教の教義とともにそのようになり得るのです。それは依然として私たちの現在の生活と関係のない重要な事実であるかも知れません。しかしそれは役に立たないでしょう。)

私たちはイエス様が死者からよみがえったことを信じるだけでなく、私たちがイエスとともにそのよみがえりにあって、そしてその立場に立って生きるようにならねばなりません。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003344.htmlです。)

2011年6月9日木曜日

目に見えないものを確信する平安

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(新約聖書 ヘブル11:1)

ヘブル11章に登場する人々は勝利を勝ち得て、その証を続けた人々でした。しかし、ああ、これらの人々が立たされた位置や彼ら自らが己が内に見いだしたところは何と不可能な状態でもあり、無力であったことでしょう。けれども結果は・・・。そうです。アベルは「死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(訳注ヘブル11:4)とある通りです。彼は依然として生きているのです。勝利を経験しました。他の人々もです。
 そしてヨセフ、この人は完全に無力で非常に深い深みに陥れられたのですが、その苦境から脱出する手管を持ち合わせ得ないのです。もしヨセフに幾分でもかすかな望みがあったら、たとえば執事がヨセフの解放される時を求めて自分のことをよく言ってくれないかなという望みがあったとしたら、彼の望みは失望に終わったことでしょう。執事は威勢のいいことを言ったのですが、ヨセフのことを忘れたのですから。ヨセフは何も出来ませんでした。自分の解放のために何の操作も出来ませんでした。彼はそこに放置されたのです。
 解放は神様でなければなし得ませんでした。それをなしてくださるのは、ただ神様だけだったのです。(その結果)ヨセフは王座につき、国の第二の人となりました。ヨセフは主のいのちの証を家族に伝えるために・・・いのちが保たれたのです。・・・・)

神様は私たちに暗闇の経験を通らせなさる時、ご自身がしておられることを話されません。もし神様がなさるのだったら、大丈夫なのです。もし神様が「わたしはあなたを非常な苦境へと導いて行っているのです。そこはことごとく暗く、奇妙で混乱し当惑し無力なところであります。でも大丈夫です。わたしが大きなことをしています。これがわたしがそこから引き出させようとしていることです」もしも神様がそうおっしゃったら、信仰の要素は次第に消えて行ったことでしょう。

もし神様が何かをしておられること、すなわち、暗闇に置き去りにし、遠くへ離れていってしまうように見え、またいかなる関心を示さないということとは全く正反対になされることを話さえして下ったのなら。もしそれさえ話してくださったのなら、です。ええ、でも神様はそうはおっしゃらなかったのです。だから私たちには神様がそう言われない、説明もなさらないことがわかっています。けれどもここに信仰の挑戦があるのです。

これがヘブル書11章と信仰の人々があらわそうとしていることです。そしてそれが意味するところです。私たちはその信仰者の相続財産を持っていること、大きな財産、信仰の人々が持っていたよりももっとたくさん持っていることを神様に感謝してください。これらの人々は聖書を持っていません。彼らがそこを通過していた時、聖書は書かれていませんでした。私たちは今彼らの物語を持っています。そしてそれもかなり多くのものをです。結果を見、続編を持っていますが、それは本当に私たちの助けとなっているでしょうか。

あなたが悪い暗闇の時を経験し、万事悪くなっていると感じているのなら、ヨセフの話をもう一度読んでください。それを読み始めるや、あなたは巻を措きたくなくなるでしょう。その偉大な教訓を取り上げてみてください。ヨセフの神様は私たちの神様です。神様は同じことをなさいます。そしてそれはいのちにとって真実だとわかります。私がずっと言って来たことはいのちにとって本当に真実です。私たちはその証拠を持っています。とにかく、それは私の経験にたいそう似ているのです。だから私には同じことが引き起こされると考え信じる根拠があります。復活の神様はこのことのうちに働いて栄光に導かれるお方です。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003216.htmlです。)

2011年2月22日火曜日

死ぬと思い定めたり

折々に伊吹を見てや冬ごもり 芭蕉
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(2コリント1:9)

あなたはご存知でしょう。主の民でない人々は自分たちが(霊的に)死んでいるという事実を知らないで生きているということを。その人たちは自分たちに肉体的な死が訪れるまでは死がそんなに大切な真実性を持ったものとは考えないのです。日常生活で物事がうまく行っており、健康で貯えもある時など、死は決して現実性がありません。

けれども、死は神の子どもにとっては(天の)ふるさとへ連れて行かれることであります。私たちが神様の御手のなかに入れられるやいなや、言うならば、全く具合が悪く、耐えられず、進むこともできないような時、このことが始まり、私たちは(天の)ふるさとへ連れて行かれるのです。私たちの生まれながらの命や力はこの場合、何にもなりません。

 神様の御手のうちにある真のクリスチャン生活の進む道は段々無力を味わわされて行くものであります。それは間違っていますか。いいえ、無力さを経験もし、何事につけ不可能なことを体験するものです。もしそのことがあなたの知るところとなっているなら、事態が悪く進んでいると考えないでください。もし、あなたが神様との交わりに導かれているという絶対権限の中でなお力がないという現実を知らなかったら、あなたはそのことを霊的に未成熟の段階に自分はいると捉えるかもしれません。(それなら)あなたは死んだ人と同じです。しかし死の事実はあなたを天のふるさとへ連れて行き、本当の者(生きる者)とするのです。

しかし、一方では復活が死に反対し凌駕する形となって現れます。その背景やその基礎に基づいて神の子どもはますます次のように言わざるを得ない立場に移されるのです。「それは主だった。それが主なのだ。私はそのことを説明できない。私はそのことを説明する者ではない。それが神のすべてである。」あなたも復活が神のすべてであると十分ご存知でしょう。あなたは様々な利口なことやでっちあげをうまくやりとげることができるかもしれないが、死人をよみがえらすことに関してはまだ何もできなかったのです。

それは神の権限です。唯一、神だけの(権限)です。だから神様の御手のうちにあって神の子どもはますます前進的に「それは神様の(もの)です。神様のすべてです」と言わざるを得ないところまで連れて行かれるのです。そしてそれこそが証なのです。主はそのことをされた。主はこのことを今なしておられる、という証です 。

それが荒野でのイスラエルの歴史ではないのですか。ごらんなさい。イスラエル人はもう終わりだと思われるところまでどんなに何度も何度も連れて行かれたか。この先には何もないというところまで。でも、それから彼らは新しい歌、「主はなされた」と歌って必ず出て来なければならなかったのです。それこそ死に打ち勝つ勝利です。復活のいのちのあの力なのです。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 です。 ちょうど土曜日の記事の前の章にあたる箇所ですね。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003052.htmlです。写真は先週の土曜日新幹線から見た伊吹山です。この芭蕉の句は私の町の神社の境内の碑に刻まれています。また好事家の手によって人家の庭石に刻まれたりしています。それほど私のふるさとはこの伊吹の句に親近性を感じたのでしょうか。私がこの句を初めて知ったのは前にも触れたことがあるのですが、高校時代で、寺田寅彦の随筆によってでした。彼のこの句の考察はさすがなものがあります。私はそれに対してあえて「折々に御文(みふみ)開きて天国へ」とそれこそ季語なしの無粋な句で今日の記事をまとめさせていただきたいのです。)

2011年2月19日土曜日

御霊に導かれる教会

近江路や菜の花晴の朝さやにみどりたたへし春のみづうみ  伊藤左千夫
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新約聖書 エペソ4:3)

新しい創造は一つの交わりであります。聖霊が住まわれる一つのからだであり、聖霊が働き、実際に聖霊によって一つにされるのです。「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(1コリント12:13)一致は聖霊による一致であります。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:3)一致は「つくる」ものでなく、「保つ」ものであります。(一致が)ここに「新しい創造」によると言われるゆえんがあります。

いいですか、もちろん、あなたがたが新創造のいのちが意味するものを体験する時、すべてのことがらに対して戸を開く鍵がまさしくそのこと(保つということ)にあるのです。そしてそれに伴って、あなたがたは全体にわたって天的ないのちにふさわしい理にかなった秩序を取り入れることになるのです。

天的ないのちは天の法則に従います。決して法則がないということではありません。このからだに属する個々のメンバーが自らの法に従うということではありません。私たちは自分勝手にするということが許されず、このひとつにされる法によって結び合わされるのです。聖霊が自分勝手にすることを許さないのです。

私たちはその法を自分で支配することは許されません。個人として行動することも許されないのです。聖霊が許さないのです。この(新しい)いのちにともなうふさわしい秩序があります。このいのちが有機体の各部分にふさわしい自らを表すのです。いのちは聖霊に従います。

創造のこの部分は本来備わっている法に従うだけです。これが聖霊のいのちです。だから、あなたがたはこのことを組織化したり機構としてする必要はないのです。もしあなたがたがそれを始めるなら直ちに死をもたらすだけです。新約聖書によっていつの間にか既製化されてしまった型に従って新約聖書の教会をつくろうと試みることは、全然型を持たないことと同じくらい致命的です!そうすることは自殺行為です。いのちが働くなら事は成るのです。

私たちはこのことをこれまで真理を知る限り学んできましたが、相変わらず、霊的な活動に当たっても、生まれながらの肉のいのちによって支配されているのです。御霊が働く以前に無秩序があり行動があるのです。しかし私たちのやっている事と言ったら、全員が学校にいて、学校では新約聖書の基盤の上に何かを組織立てする必要がないという決まりや原則や真理を得々と発表しているようなものです。それに対して聖霊が本当にいのちの働きのままところを得られるならばことはいっぺんに起こるのです。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 7 です。朝早くこちらを発ち、姪の結婚式に近江に帰り日帰りで戻ってきました。姪の結婚式には泣かされました。親子の情、新しい夫婦の誕生は何度立ち会っても感動させられます。二人のうちに主イエス様がおられるようにと祈らざるを得ません。二人ともこのブログではおなじみの近江兄弟社出身で、牧師さんの司式で行われました。その会場がこれまたいつも私たちが「近江八幡喜びの集い」を持つ会場でした。その上、会場近くに写真に示しましたように菜種畑が湖岸に広がっていました。伊藤左千夫さんのこの短歌を知ったのもつい数日前です。不思議な神様のみわざです。おかげで今日の訳は生煮えですが、ご勘弁を!原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003048.htmlです。)