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2011年7月17日日曜日

すべては私たちが啓示を受けることから始まる

これは不思議、もみの木の美しさ、朝目覚めて窓を開けて気づく(長野県御代田)
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

勝利し、続ける力にとっては、私たちのうちにおられる聖霊による啓示だけが十分でありうるのですが、そのことは現に可能なのです。それは人の霊の内側にある啓示であって、たとえそれがどんなに神についての真理であったとしても、決してその精神的な真理の認識ではないのです。「私は知っている」と言うことが出来る力はかつて聞いたり読んだりしたことでなく、「私は知る」ということです。啓示により知ることは、私たちから何ものも奪い去ることが出来ない経験です。

この聖霊による啓示を持つことが絶対的な基本です。なぜなら私たちは神から出るものを除いて何ものも反対することが出来ない悪霊の力に遭遇しなければならないからです。「あなたは私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」(訳注:詩篇4:1)とありますが、どのようにしてでしょうか。それは内側にある主のいのちが絶えず現われて来るからです。悩み、試み、悲しみ・・・このようなものに私たちは支配され、そのようなものは全ての人間にとって共通することですが、内側にある「主の力による強さ」によってそれらは凌駕できるのです。

私たちには神を知る知恵によって与えられる主の光があるゆえに強いのです。(エペソ1:19)これは日毎に大きくなる啓示です。パウロはエペソの聖徒たちに書いていますが、それらにはどんなにすばらしい出来事があったことでしょうか。パウロがエペソの人たちと別れるおりの言葉(使徒20:17~38)をごらんになってください。そのような人に向かって「あなたがたが理解する力を持つことができるように」と言い、啓示によってもたらされる神の強力な力の必要性を示しました。敵である悪魔は啓示に強力に抵抗します。悪魔は啓示を駄目にし妨害するためなら手段を選ばないでしょう。

光と力は伴うものです。忍耐力は「私は知る」という啓示によるのです。真理が啓示され、その真理が確立される、このことがサタンとサタンを宿す人に衝撃をもたらします。光が力に先行するのです。主が目を開かれるとあなたは起こっていることがわかります。「あなたの心の目がはっきり見えるようになって、知ることができますように」(訳注:エペソ1:18,19)というのが、開かれた目の結果です。「主イエスをよみがえらされた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせることを知っている」(2コリント4:14)

「わたしはあなたを彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らすために遣わす」(使徒26:18)パウロは主イエス様によって人々の目を開かせて暗やみから光に、そしてサタンの支配から神にあって御国を受け継ぐ者へと立ち返らせるためにメッセージを携えて行くように遣わされました。これが目が開かれた者が受け継ぐものです。主の主権は開かれた目に続くのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003285.htmlです。)

2011年6月1日水曜日

主イエス様の啓示

昨年と同じところに花を咲かせた蛍袋。今年はアングルを変えてみた。
神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 2コリント4:6)

私たちは「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」という啓示によって信仰に堅く立つ者です。「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:16)

私たちはどのようにして立たせられ、その信仰が確立されることになるのでしょうか。この任に堪え得るにはどのような経験を私たちはするのでしょうか。それはただ主イエス様をこのように心の内側で知ること、すなわち啓示によるのです。しっかり立とうとする人々はこのことが生きた啓示となっている人々です。「神は、私たちの心を照らし」このことは一面であります。が、もう一面があります。「四方八方から苦しめられ、途方にくれ、迫害され、倒されているが、落胆させられない」(2コリント4:6~10 )ということです。私たちは悩まされ、苦しめられている・・・なぜでしょうか。「それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためです」(2コリント4:11)それが耐え忍ぶことではないですか。

四方八方から苦しめられているが、決して押さえつけられない!「あなたは私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」(詩篇4:1)苦しめられると思われたことを神様はゆとりとなさったのです。投げ捨てられるが、不思議なことに立ち上がることができるのです。なぜでしょうか。またどのようにしてでしょうか。それは「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」からです。だから、あなたはその苦難をくぐり抜け、生き延びることが出来るのです。

私たちの心の内には聖霊による主イエス様の啓示以外に何ももたらすものはありません。それは心の内側で主を知ることであります。決して信条や教義に知的に同意することではありません。私たちの存在そのもののうちに生き生きと働く真実な証に他ならないのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003208.htmlです。)

2011年3月24日木曜日

堅忍不抜の信仰

鷺一羽 足を抜き差し 餌を求め 歩く水底 堅忍不抜
キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし(新約聖書 コロサイ2:7)

(約束の)土地に入ったアブラハム ・・・しかしまさしく神から彼に与えられた約束は拒否されるかのように見えます。アブラハムが誤解したのですか。私たちは時々主に当惑させられないでしょうか。主の道が通り過ぎて見いだせなくなっていないですか。

すべて大変混乱しているように見えます。しかし一度信仰が耐え忍ぶと、ある日私たちは主を賛美するのです。その後、私たちはそうなった理由を知るのです。「義人の道は・・・いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)のです。状況ではない、「道」があることを記憶にとどめましょう。

これらの神様が示される道の不可思議さには神様のいくつかの隠された奥義がふくまれています。それらの奥義は主の英知と力を前面に示す別の機会ではないでしょうか。すべてが駄目になるように見え、大変大きな対立や大変不慣れな体験や状況に対する鍵がないと、私たちは誘惑に駆られ、約束は本当に神様から来たものか疑問を持ちます。万事が私たちの期待したものと反対であり、私たちは自分たちが全部間違っているのだろうかと思い始めます。

ちょうどその時が、私たちが主にあってしっかり立ち、信仰における堅忍不抜を保つ時なのです。結局のところ私たちの体験は随分似通っているものです。当惑させられ、明らかな矛盾があり、対立があります。経験のかたちは様々ですが、私たちのすべてがあれやこれやの方法を取ります。しかし「彼は信仰に堅く立つのです」

このことはどのようにして私たちのうちに確かになるのでしょうか。まさしくそれは事態が事態として、助けられる手だてもなく、私たち自身も投げ出さざるを得ず、主を仰ぎ見るしかない時、その時が私たちをとおして主が明らかになる時です。今あなたは神様の奥義を知るところまでやって来ています。今こそ主の栄光があらわされ、主の英知が示され、あなたの信仰が確立される時なのです。それが、すべて堅忍不抜の信仰の内容なのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003104.htmlです。今日も朝、夕と地震がありました。今のところ地震のない西日本の地方の方には中々わかりにくいのではないでしょうか。それにしてもこんなに頻発する地震は初めてじゃないでしょうか。水路に抜き足差し足行く鷺に思わずカメラを向けました。彼に取っての大地は水底でしょう。彼の信頼は揺るがざる大地でしょう。「堅忍不抜」と今では聞き慣れない用語を多用しましたが、英文ではenduranceです。)