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2011年8月27日土曜日

Subjective exercise

御代田の某食堂の花園の一角です。このお店は栄養満点、花満点のお店です。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。・・・。彼女たちは驚いた。(新約聖書 マルコ16:4,5)

(その時、このことが(訳注:主観的な訓練の必要性)主宰となっているのはどんなことですか。そのことは興味があります。そして4つの福音書の中でマルコの福音書がこの出来事に関連する主観的な訓練に言及しているただ一つのものであることに注意するのは有益だと思います。他の三つの福音書は復活の出来事を、客観的、外形的に記録するに過ぎません。人は大きな地震があったこと、一人の天使に注意せよと言います。ヨハネはマグダラのマリヤが墓にやって来て、「墓から石が取りのけてあるのを見た」と言うところまで進んでいます。しかし福音書のどれもマルコが記録していることに言及していません。すなわち彼女たちがお互いに誰が石をころがしてくれるかと問いあっていたことであります。ここに主観的な訓練があったのです。このことに帰するのです。何かは私たちのためにはもちろんのこと私たちのうちでなされねばなりません。私たちは私たちのためになされたことがらを経験するという線を続けたいのです。つまり天は私たちのために介入したとか、私たちの困難は私たちのために取り去られたとか、私たちのために道が真っ直ぐにされたとかです。天は介入する備えがありますでしょう、主なる神様は私たちのために働く用意があるでしょう。しかし主なる神様にとってそれは十分ではないのです。そしてもしそれがすべてであったら私たちにとってそれが十分良いとは言えないでしょう。霊的な成長と成熟の原則はまさしく主なる神様が客観的なことと主観的なこととのバランスを維持されることを求めるのです。それがあることが私たちのためはもちろんのこと私たちのうちになされることであります。
 それは再び十字架の原則でもあります。彼は私たちのために死なれました。それは客観的であります。私たちはキリストにあって死にました。それは主観的であります。ここに霊的な経験の二面性があります。キリストは物事のバランスを維持されます。私たちは自らのうちにこのバランスを働かせ、私たちの問題を許して主を見ないようにするこの傾向、すなわち「主はこのことについて私たちに何を教えたいと思っておられますか。このことにおいて主は私たちのうちに何をなさりたいのですか。私たちのうちに主が計画しておられることがあります。」と言う代わりに、置かれた状況を単に客観的に見るというこの頑固な私たちの習癖から解放されねばなりません。主は私たちのためにそれをなさる以前に、私たちのうちになさることをお持ちであります。私たちが主との新しい立場にやって来る時、どんなにしばしば私たちはそのことに気づいてきたでしょうか。物事が私たちのうちになされ、それから外に動きがあったのです。だから主観的な訓練に言及することは私たちがこのことを私たち自身の心で私たちのうちに変化を必要としている 何かと捕えねばならないことを暗示しているのです。私は全く確信していることですが、それが、彼らが腰を下ろして何度も何度も繰り返すことができた時感じたに違いない方法なのです。「私たちは私たちの問題で恐ろしいほどに頭が一杯でした、いったい誰が私たちのためにそれを解決できるのか問い続けました。主は私たちに私たちがこういうことについて内面的に違っていなければならないということ、すなわち、私たちが信仰、それらにまさる平安の立場を持ち、私たちが神を信じなければならないということを見させてくださいました。」私たちが外見上それにまさると知らされる優越性を知る以前に、私たちはその石にまさる優越性を内面的に獲得していなければならないのです。その石はまず第一にまさしく私たちの外側のことではないのです。それは内面的なことなのです。私たちの信仰、私たちの霊、私たちの心の中のことなのです。)

主なる神様がご自身の御子のために行動され、支配する関心をお持ちで、私たちが余りにも石が大きくて動かし得ないというような御子との関係に移された時、解決するのに余りにも大きい問題はなく、手がけるのに難しいこともないのですが、主なる神様は御子のために必要なことをなさいます。つまり私たちがそのような立場に達した時、主なる神様は非常に冷静に多くのことを自由になさるので す。私たちが言うように、それらはまさしく「起こる」のです。ああ、しかしそれらは並外れた偉大な力の行使の対象であったのです。「大きな地震が起こっ た」(マタイ28:2)けれどもここで、この状況の観点から見て、地震が起こるようには全然見えないのです。しかしちょうど起こったのです。私たちはまるでそれらがかつて存在しなかったかのような、主の巨大な力の働きが最大の困難を片付けてしまうという働きの視点があることを認識せねばなりません。時々主なる神様は私たちにしょっちゅうではありませんし、確かにいつもではないのですが、はっきりした素晴らしいご自身の力の働きの現前へと私たちを連れて行くことがおできになるのです。私たちがのちになって驚くような非常に静かなうちに障害物を脇にやることが可能になるような大変な力があるのです。「そして彼らは驚いた」すると天使は言いました。「驚いてはいけません」驚くことは良いことですが、私たちが驚く程度によって、私たちが十分信仰を持っていないせいなのだということも認識しましょう。

( 今日の箇所は The Problem of the Stoneの抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003343.htmlです。)

2011年7月16日土曜日

ああ、私たちは何を大切にしているのでしょうか

浅間山の噴火による火山岩を積み重ねたものだろうか、何気なく気になってパチリ
人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。(新約聖書 マタイ19:26)

できないということを眺める上で二つの道があります。すべてのものはあなたが不可能だと考えていることに依存するのです。それは事態の上に立っているか、それとも神の上に立っているかです。人にとって可能でないことは神にとって可能であります。(マタイ19:26)そして神はこのような不可能な事柄に通常の方法で答えられます。というのはそれは通常の方法であるからです。異常な方法はしるしや不思議や極端なできごとであるものです。私たちの感覚に示威的であります。しかし、キリスト者生活にあって通常の方法は、死の働きに打ち勝つ神のいのちが絶えず超越する方法であります。

その奇跡は私たちが認識する以上にはるかに一般的であります。あなたはすべてのものが霊的ないのちに反対している霊的な死の領域で、生活し、働かねばなりません。そしてそこにはあなたを支えるものは何一つとして全然ありません。しかし主にあってそこにいるのです。その雰囲気によってもまたそれらの状態によっても飲み込まれたり、破壊されないのです。それが沈黙のうちに働く神の奇跡です。その時、あなたのいのちは、すべての人のいのちと同じように、死、霊的死という大きな石の存在のうちに置かれているいのちです。

私たちはそれを知っていますが、霊的に生きるように維持され生き続けるのです。それは偉大な奇跡です。日常生活の奇跡です。神が死からよみがえられた証です。

この石はすべて彼らの以前の希望を超越していることの象徴となったのです。主イエスのよみがえりにあって以前の希望が生き返させられたのではなかったのです。彼らの望みは変化を経験しなければならず、その期待も大層変えられねばならなかったのです。要点はキリストのよみがえりにともなって彼らの望みが単に再び生き返ったのではなく、それまでがっかりさせられてきた全ての希望を完全に超越したのであります。

彼らはイスラエルの一時的な贖罪を求めていたのです。だから彼らは別の光でイスラエルの贖罪を見なければならなかったのです。主イエスのよみがえりにおいて(あるいはこんなふうに置き換えてもいいでしょうか)復活のキリストとつながって、私たちの希望は世が与える全ての希望よりはるかにまさっているのです。

私たちは主の死にあって私たちの宝をちりとしなければならないでしょう。私たちにとって望みであったり期待であったり、野心であったり、外見であったりする非常に貴重であるものをことごとく手放さなければならないでしょう。私たちの大切にしている世界は小川の小石と一緒に置かれねばならないでしょう。(ヨブ22:24)

キリストとのむすびつきのよみがえりにあって、私たちが以前望んでいたものよりも、もっと多くのものが返されるのです。神はそのようです。あなたはそれは言葉であり、非常に美しく響くと言うかもしれませんが、本当ですか。いいでしょうか私は霊的ないのちと歩みをいやしくも何ほどかでも持っておられる方に訴えているのです。

あなたは疑いもなくすべてのものを手渡さなければならない深い暗やみの試練の時を通過したことがあるでしょう。非常に大切であったものを祭壇に置き、それを主に明け渡さなければならない危機に到達したことがあったでしょう。もし主がそれをあなたに戻さなかったとしたら、あなたは何らかの霊的な富、何らかの霊的に良いこと、また「そうなんです。それだけの価値があった」と言わしめる霊的な方法でもっと多くの何らかのものを、受け継がなかったですか。あらゆる消え失せた望みや期待に対する十字架を通しての主のお答えは、そして神のご性質そのもののうちにあって、墓に横たえられたものよりももっと多くのものがあるにちがいないのです。それがまさしく復活のキリストの原理であります。主は以前存在された(もし私が誤解されずにそんな言い方が許されるならですが)よりも、よみがえりにあってはるかに偉大なキリストでありました。

(主は普遍的なお方であり地方的ではありません、霊的であり、肉体によって限定されていないのです。そうです。彼らはより偉大なキリストを受け継いだと言ったことでしょう。もちろん、主は目に見える事実でより偉大なキリストではありませんでした。彼らはつねにそこにあったのだが、以前は決して理解しなかった偉大さを受け継いだのです。それが死とよみがえりの原理(つねに増大し、つねにもっと多くのものとなる)です。
 一粒の麦は地に落ちて死にます。そして多くの実が生ずるのです。以前の希望を超越するものがそんなふうにして生ずるのです、前のものが戻って来るのでなく、何かが加えられて戻って来るのです。一時は「残されるものは何もない」と言われるように思えた石が、かつて彼らが考えていた以上に巨大で大きなものを増し加える象徴となったのです。)

(今日の箇所は The Problem of the Stone の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003284.htmlです。今日の箇所を通してヨブ22:24を知りました。私は今日の写真に重ね合わせてこのみことばを反芻しました。)