御代田の某食堂の花園の一角です。このお店は栄養満点、花満点のお店です。 |
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。・・・。彼女たちは驚いた。(新約聖書 マルコ16:4,5)
(その時、このことが(訳注:主観的な訓練の必要性)主宰となっているのはどんなことですか。そのことは興味があります。そして4つの福音書の中でマルコの福音書がこの出来事に関連する主観的な訓練に言及しているただ一つのものであることに注意するのは有益だと思います。他の三つの福音書は復活の出来事を、客観的、外形的に記録するに過ぎません。人は大きな地震があったこと、一人の天使に注意せよと言います。ヨハネはマグダラのマリヤが墓にやって来て、「墓から石が取りのけてあるのを見た」と言うところまで進んでいます。しかし福音書のどれもマルコが記録していることに言及していません。すなわち彼女たちがお互いに誰が石をころがしてくれるかと問いあっていたことであります。ここに主観的な訓練があったのです。このことに帰するのです。何かは私たちのためにはもちろんのこと私たちのうちでなされねばなりません。私たちは私たちのためになされたことがらを経験するという線を続けたいのです。つまり天は私たちのために介入したとか、私たちの困難は私たちのために取り去られたとか、私たちのために道が真っ直ぐにされたとかです。天は介入する備えがありますでしょう、主なる神様は私たちのために働く用意があるでしょう。しかし主なる神様にとってそれは十分ではないのです。そしてもしそれがすべてであったら私たちにとってそれが十分良いとは言えないでしょう。霊的な成長と成熟の原則はまさしく主なる神様が客観的なことと主観的なこととのバランスを維持されることを求めるのです。それがあることが私たちのためはもちろんのこと私たちのうちになされることであります。
それは再び十字架の原則でもあります。彼は私たちのために死なれました。それは客観的であります。私たちはキリストにあって死にました。それは主観的であります。ここに霊的な経験の二面性があります。キリストは物事のバランスを維持されます。私たちは自らのうちにこのバランスを働かせ、私たちの問題を許して主を見ないようにするこの傾向、すなわち「主はこのことについて私たちに何を教えたいと思っておられますか。このことにおいて主は私たちのうちに何をなさりたいのですか。私たちのうちに主が計画しておられることがあります。」と言う代わりに、置かれた状況を単に客観的に見るというこの頑固な私たちの習癖から解放されねばなりません。主は私たちのためにそれをなさる以前に、私たちのうちになさることをお持ちであります。私たちが主との新しい立場にやって来る時、どんなにしばしば私たちはそのことに気づいてきたでしょうか。物事が私たちのうちになされ、それから外に動きがあったのです。だから主観的な訓練に言及することは私たちがこのことを私たち自身の心で私たちのうちに変化を必要としている 何かと捕えねばならないことを暗示しているのです。私は全く確信していることですが、それが、彼らが腰を下ろして何度も何度も繰り返すことができた時感じたに違いない方法なのです。「私たちは私たちの問題で恐ろしいほどに頭が一杯でした、いったい誰が私たちのためにそれを解決できるのか問い続けました。主は私たちに私たちがこういうことについて内面的に違っていなければならないということ、すなわち、私たちが信仰、それらにまさる平安の立場を持ち、私たちが神を信じなければならないということを見させてくださいました。」私たちが外見上それにまさると知らされる優越性を知る以前に、私たちはその石にまさる優越性を内面的に獲得していなければならないのです。その石はまず第一にまさしく私たちの外側のことではないのです。それは内面的なことなのです。私たちの信仰、私たちの霊、私たちの心の中のことなのです。)
主なる神様がご自身の御子のために行動され、支配する関心をお持ちで、私たちが余りにも石が大きくて動かし得ないというような御子との関係に移された時、解決するのに余りにも大きい問題はなく、手がけるのに難しいこともないのですが、主なる神様は御子のために必要なことをなさいます。つまり私たちがそのような立場に達した時、主なる神様は非常に冷静に多くのことを自由になさるので す。私たちが言うように、それらはまさしく「起こる」のです。ああ、しかしそれらは並外れた偉大な力の行使の対象であったのです。「大きな地震が起こっ た」(マタイ28:2)けれどもここで、この状況の観点から見て、地震が起こるようには全然見えないのです。しかしちょうど起こったのです。私たちはまるでそれらがかつて存在しなかったかのような、主の巨大な力の働きが最大の困難を片付けてしまうという働きの視点があることを認識せねばなりません。時々主なる神様は私たちにしょっちゅうではありませんし、確かにいつもではないのですが、はっきりした素晴らしいご自身の力の働きの現前へと私たちを連れて行くことがおできになるのです。私たちがのちになって驚くような非常に静かなうちに障害物を脇にやることが可能になるような大変な力があるのです。「そして彼らは驚いた」すると天使は言いました。「驚いてはいけません」驚くことは良いことですが、私たちが驚く程度によって、私たちが十分信仰を持っていないせいなのだということも認識しましょう。
( 今日の箇所は The Problem of the Stoneの抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003343.htmlです。)
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