鉢植えのイチジク、食べ頃。しかしアリは誰よりも早く蜜を吸っている。土地は・・・ |
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(新約聖書 ローマ8:20)
私たちの視界に入るものが見られるような窓として役立つ一文章を探り求めるとしたら、もっとも効果あるもののように見える文章は「地が手出しするのろい」でありま す。こういう文章の最後の三つのことば(訳注:のろい、土地、接触)の意味することを理解することは霊的な、世俗的な歴史を丸抱え説明することになりま す。
(私たちはこの土地がのろいのもとにあるという事実を再強調することによって始めねばなりません。このことは創世記 3:18,19、ローマ8:20~23の双方において強調して述べられています。キリストが十字架による贖いを効果あらしめたにもかかわらず、そのことは被造物に関するなら可能性に過ぎなく、「キリストにある」人々の場合に霊的なことであるに過ぎないのです。「被造物自身」も「私たちの体」も「神の御子のあらわれ」、贖いの働きの完成を待ち望んでいるのです。信者だけが「のろい」から解放されています。その間、被造物はのろいのもとにうめいているのです。
この地は2ペテロ3:7,10~13の火によって焼きつくされ、聖められます。かなり数世紀前に書かれたこれらのみことばは、書かれた当時いた人よりも多くの人によってはるかに理解しやすいことばです。この完成に向かって急速な進行は私たちの一生涯にも満たないで、「主の日は近い」と叫んでいます。だからのろいが今あるのです。急速に時は縮まっています。地上のどの地域も終局に向かって終わりからまぬがれることはないのです。)
のろいの性質と特徴は聖書がいたるところであらわすように、失望、挫折、困惑、不満、失敗、混乱、苦難、破綻、そして絶えず絶望と死との戦いに敗北させられるのです。
(神の目的に大々的に仕えたそんなに多くのものがなぜ結果として崩壊し、壊され、過去に生きていたものよりほとんどなくなるというのですか。なぜ主ご自身はこれを避けないで、主が用いられた完全な道具や用具を維持されなかったのですか。なぜ分離に分離が続き、聖書の真理に関して完全な位置をもとめて大変用心深かった多くのものの道にほとんど際限なく続くというのですか。
こういうようなまた多くのそのような質問に対して答えは一つしかありません。その答えは地が手を出すということです。)
どこかで、どういうわけか、駄目にする結びつきがなされてきたのです。この地に貢献する所作があったのです。人は天的なことがらに手を伸ばし、それらをこの地にもたらそうとつとめてきました。それが様々な要素の性質を持つ「新約聖書の教会」であるのかもしれません。新約聖書の記録と一致して教えられ、成立し、なされた一定のことがら。一定の秩序、方法、構造、こういうものが一括して教義、手順の形式のために引き出され、「基盤」、すなわち型や基準、からだ、制度、社会の「組織」とされてきたのです。人の心、人の手が定義し、支配し、維持することによってです。歴史の判断は神がいかなるこのようなことがらに対していささかもご自身をゆだねられないだろうということです。
(教会が最初実際に誕生した時、教会は「上から生まれ」ました。 それは大きな、ほとんど恐ろしいと言っても良い危機を、すなわちキリストが十字架につかれたことにより崩壊する危機を収束するものでした。教会が誕生するようになった時、あらゆる場合において、それはこの人の内側からする激変と革新がそれぞれの地方にあらわれておこる繰り返しでした。教会は決して一人の人や人々によってつくられたのではありません。それはたとえどんなに最大の使徒たちにあってもです。)
使徒たちは行くところどこにあっても新約聖書の教会の 「青写真」を持ち込みませんでした。彼らの働きの結末は危機でした。古い造られしものは頂点に上り、新しく創造されたものが認められるという危機でした。 秩序や知識に続いたものは有機的でありました、決して組織化されたものではありません。自発的なものであって強制によるものではありません。いのちであって規則ではありません。なかんづく天的であって、地的ではありません。事態が悪化するのは、人がこれを地に引き下ろした時にはじめてそうなるのです。
(神様は多くの時、何かをもって新しい動きを天的になさってきましたが、最初そこに導かれた人々の上には天からする大きな影響があったのです。人々の間に地上と天上との間のそのような根本的な分離がありました。それは「すべてが新しくなった」という分離です。人々にとって二つの世界が分離され、妥協することのない内側からする断絶が生じたのです。もし悲劇がのちにやって来るとしたら、二つの点の上にあったように見ることができます。
1、これらのうち最初のものは彼らがその歴史を他の人々のために形式や枠組みとして結晶化することを求めることによって自身の歴史の原則をまさしく破ったのです。彼らは「キリストの十字架」の意味を完全な見方で維持し、他の人々にある危機のために骨折る代わりに一組の形式を提案したり、強制したのです。
2、 それから別のものが生じましたが、それは偽物であったり不適当な背景のもとに生じたことでした。彼らはそのいのちを感じ、良いものを(客観的に)見、そして価値を求めました。しかしすべてが犠牲や危機を経ることなしにです。破産もなければ、駄目になる危機もなく、天は開かれず、骨折りもせず、ただ祝福とおそらく地位を求めての価値だったのでしょう。彼らの以前の精神、伝統、野心は触れられず仕舞いでした。彼らの生まれながらの判断力は壊されることがなかったのです。地による手出しはこのようになされ、事態の性格は変化してしまいました。混乱と矛盾の物語、基準・影響および天来の栄光の欠如が気づかれないうちに始まり、いつからかのちにはじめて危機がその人々の上に襲い、下降を意味する変化が生じたのです。)
ああ、これは何たる地の手出しでしょうか。どれほどそのことは致命的でしょうか。主の民は一体いつになったら天におられるキリストとのつながりの本質の意味を理解するのでしょうか。
(今日の箇所は The Curse of the Earth Touch の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003341.htmlです。ところどころおかしな訳のところがあります。いやいや随分あります。読者の方で直して投稿してくださると助かります。今日の箇所はオースチン・スパークス氏が日頃から強調しているところですが、6頁ほどの原文を全部お読みになることをお勧めします。)
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