読む箇所:ヨハネ4:46〜54
ここには王室の役人と死にかかっている息子のできごとが書かれています。彼はイエスを探し、説得して自分と一緒に家に行ってもらい、息子を直してもらおうとカペナウムからはるばるやって来ました。イエスは彼の信仰をためされたが、その信仰が全く本物であることを知って「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と言われた。その人はイエスを信じて帰途につき、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われたちょうどその時刻に子どもが良くなり始めたことを知りました。
このできごとの核心は何ですか。なぜイエスはカペナウムまでその人と一緒に行かれなかったのですか。イエスは別の機会にはそこへ行ってたくさんの人を直されました。なぜイエスは言われなかったのですか。「わたしはいつかカペナウムに戻り、そこで多く働く必要があります。今行ったほうが良いのです。ここには機会があります。招かれています。わたしはすべての招きを受けなければならないと思います。」
ところが、イエスはそう言われませんでした。イエスはおられたところに留まり、その人を随分遠くの家に送られました。その人が家にたどり着くには昼の正午からその日の日没までかかり、それから翌日にさしかかっていました。なぜイエスはこの特別な機会にこの方法を適用なさったのですか。
ユダヤ教の背景があります。それは何ですか。それは「文字は殺す」(2コリント3:6)という律法の背景があります。イエスは言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)もし、キリストが話されるなら、キリストのことばは霊でありいのちです、という場合はどれだけ遠く離れていようとも問題ではありません。
律法について話す旧約聖書は死をもたらしました。「文字は殺す」(それは律法の文字です。)「御霊は生かす」(2コリント3:6)そして、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」イエスは話さえすればよく、律法の結果(訳註:死)を逆転されました。律法はこのことを決してなし得ませんでした。あなたはこの子どものところにエルサレムからすべての律法学者とパリサイ人を連れて来れるかも知れません。すると彼らはモーセの律法を全部暗唱できますが、何も起こりません。
イエスは彼らが律法を朗読するために確かに、そしてすぐに死なれるだけでしょう。(He will die right enough, and probably all the quicker because of their reading of the law!)イエスは口を開き、ことばを話さえすれば、数マイル離れた子どもはその瞬間良くなり始めたのです。そうです。イエスはご自身の口の法(のり)がいのちだと言っておられます。みことばのうちにある死からいのちへのこの移行は極めて明確であります。
(英文併記の箇所はどうしても適切に訳せません。ふさわしい訳をお教えくださるとありがたいです。)
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