2011年8月10日水曜日

夏休み番外編②わき出る泉への開かれた道

(ここには、もう一つの章節の不幸な分断があります。霊的な目的からすると、ヨハネの福音書が3章、4章と分離されているのは、大変残念なことです。)
読者はヨハネの福音書4:1〜42をお読みください。

主とサマリヤの女との間で交わされたすべての話の核心は14節です。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」私は今しがたここの章節の分離はあるべきでないと言ったばかりですが、それは民数記21章が分離されていないからです。上げられた青銅の蛇の出来事のあとすぐにわき水である井戸の出来事が書かれているからです。「そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。〈わきいでよ。井戸。〉」(民数記21:17)

十字架がその働きを成し終えたとき、つまり、キリストが私たちの上にとどまるさばきと呪いを耐えしのばれたとき、聖霊は解き放たれ、永遠のいのちの泉としてわき出るのです。そういうわけで4章には民数記21章の背景、上げられた青銅の蛇にすぐ続いているわき出る井戸があるのです。3章と4章には以下二つのことがらがあるのです。

私たちのために呪われたものとなられ(と言いますのは、申命記21:23に「木につるされた者は、神にのろわれた者」と書かれているからです)、私たちの反抗心のさばきを甘受し、十字架に上げられたイエス様。それから、キリストがそれを成し遂げられて、永遠のいのちのわき出る泉の道となられたことです。

聖霊は聖書に素晴らしいつながりを与えておられます。そうじゃないですか。聖霊はどんなにものごとを一体化することでしょうか。私たちは恐らくヨハネの福音書3章と4章を民数記21章の中に見出すことは考えもしなかったでしょう。しかし、確かにそうなのです。

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