2011年8月9日火曜日

夏休み番外編 ① 蛇、呪い:上げられたイエス

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14〜15)

ここには旧約聖書の背景があります。それは民数記の21章です。こんなふうに出来事は始まっています。「民は神とモーセに逆らって言った。(略)私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)民はマナ、すなわち天から与えられた食べ物に激しい言葉を用いました。彼らは神とモーセに逆らって言ったのです。「私たちは神が備えたものを憎む」と。

是非覚えていただきたいのですが、神がみわざをなさる時はいつも御子を念頭に置かれておられたということです。この場合がまさしくそうです。神はイスラエルの子たちに天からのマナを与えられたのです。(ヨハネ6章で明らかにされるとおりです。)マナはキリストの型でした。キリストは言われました。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。(略)わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:33,35)イスラエルの民は言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」しかも皆さんはユダヤ人がキリストが来られた時に「私たちはこの男を憎む!」と言う案配に話したのを聞くことができます。それがイスラエル人の心でした。

神は荒野のこれらの民の心を見ておられました。彼らの心は神に対して、また神が与えてくださったものに対して、どんなに反抗的であったことでしょう。そのために、「主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:6)「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」ああ、ここには深刻で恐ろしいことがあるのです。聖書の初めから終わりにいたるまで、蛇は常に呪いと神のさばきの象徴であります。御存知のとおり聖書の蛇に関するまさしく最初の言及がそうであります。この荒野に上げられた蛇は神のさばきの象徴でありました。反抗的な民にとどまった神のさばきと呪いはその蛇へと移されたのです。今や人々に対する神の呪いとさばきを乗せる旗ざおに移され、その青銅の蛇を仰ぎ見る者は誰でも救われたのです。

旧約聖書のその一片を用いて主イエスは次のように言われたのも同然でした。「わたしはあなたがたのために呪いとされます。わたしが上げられる時、あなたがたのさばきをわたし自身の上に甘受します。わたしはあなたがたの罪を木の上のわたしの体に移します」十字架につけられたキリストのうちに呪いとさばきからの解放があり、仰ぎ見る者は誰でも生きるのです。こうして私たちが知っている最大の聖句に近づくのです。

「というのは」(私は接続詞が好きです。接続詞は新約聖書でつねに重要です。〈というのは〉、〈それゆえに〉とかある場合はつねに熟考すべきです。)「神は実に世を愛された」私たちはしばしば文脈を無視してヨハネ3:16を引用します。ああ、これは何と恐ろしいことでしょうか。

神はご自身のひとり子の上に私たちすべての罪・咎を置き、御子が、ご自身の愛された御子が、私たちのために呪われたものとされることを許されたのです。なぜでしょうか。「というのは、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(訳注:日本語の聖書では〈というのは〉という接続詞は訳されていない)」この聖句を取り上げ、民数記21章の中に正しく置くか、民数記21章を取り出しヨハネ3:16の中に正しく配置する必要があります。

ここに旧約聖書から新約聖書への移行の背景と前景があるのです。新しい天的なイスラエルは「信じる者は誰でも永遠のいのちを持つ」という基盤の上に築かれるのです。私たちはこのことについてもっともっと言いたいです。しかし、先を急がねばなりません。

(パソコンを使えない状況にありますので、当分このような形で投稿させていただきます。今まで通りスパークス氏の英文の私訳です。)

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