(オースティン・スパークス氏はヨハネの福音書にユダヤ教の背景があるものとして16のポイントをあげています。今日ご紹介するのはその中の10ポイント目に該当するものです。)
読む箇所:ヨハネの福音書6章
このことについてはすでに何度かお話したことがあります。ユダヤ教の背景は32節にあります。「天からのパンを与えたのはモーセではありません。わたしの父です。」ユダヤ人のいる前でイエス様はおっしゃっているのです。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えます。(略)わたしがいのちのパンです。」と。
ヨハネが荒野のマナについて広範囲にわたる文章71節を網羅して明らかにしているのは一つの論点であります。それは人間的に不可能な状態において神の食べものがいかに与えられるのかという論点です。このことは自然の領域を出て明らかに超自然の領域へと連れて行かれることです。
ニコデモ、彼はイスラエル人のまさしく典型ですが、キリストによって強力な〈どのように〉と疑問を起こされた要求に直面しました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。」その疑問はクリスチャン生活の始まりの奇跡を自明なこととして仮定していたのです。
「いのちのパン」であるキリストご自身が、いたるところ霊的な荒廃があるとき、神の民のいのちを養われるということは、第一に奇跡であり、第二に事実であり、第三にキリストとの生き生きとしたつながりを試みるものです。この奇跡と事実は霊的な支えに何の地上的な手段を持たなかったかなり多くの人の活力と忍耐の長い歴史が証明しているものです。私たちの生活がキリスト自身に収斂されており、単なる宗教に支配されていないなら、私たちが歩み続ける方法は奇跡となることでしょう。
おそらく、これが神の多方面にわたる知恵が教会によって支配と権力にまさって知らされ、私たちが〈キリストの恵みの栄光〉にある道の一つとなることでしょう。
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