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2011年10月2日日曜日

神は御子によって語られる

いわゆる「放蕩息子の帰還」1606年 レンブラント・エッチング
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1〜2)

神は過去、「いろいろな方法」で、つまり、さまざまな部分だけでなく、さまざまな様式で語られたとヘブル人への手紙は言っています。余り長く時間をとると旧約聖書に戻って神が語られたすべての様式を見ることはできないでしょう。神は無数の異なった手段によって、時にはことばによって、時にはわざによって語られました。その方式は実に「さまざま」でした。しかし、ここで宣言されていることは終わりに神が一つの方法、一つのすべてを包含する方法で語られたということです。それは神の御子のうちにあります。神の御子は、終わりに語られる神の一つの包含的な方法であります。一方では誰もイエス・キリストを離れては神から何も得られないでしょう。神は御子にある以外には全く語ることを拒絶なさるのです。もし神があなたに言いたいことが何であるかを知りたいのなら、あなたは御子のところに行かねばなりません。もう一方でイエス・キリストにあるなら私たちは神がつねに言おうとされることをすべて知るのです。

(特に若いクリスチャンに申し上げたいのです。私は長年かけて聖書を読み学んできました。全く正直にお話するのですが、今日この本・聖書は全く私の分を越えたものです。もしそのことが本当でなかったら、私は決してこのヘブル人への手紙には戻らなかったでしょう。長年この手紙から説教もし学びもしてきました。しかし今日この手紙は私をはるかに越えているのです。果たして私たちはこの手紙を「ヘブル人への手紙」と言っていて、いいのでしょうか。「この手紙に啓示されている主イエス」と言うのがもっと正確でありましょう。)

そうです。私たちが依然として理解しようとしていることよりもはるかにもっと神は御子にあって語っておられることをこの手紙をとおして知るからです。私たちはイエス・キリストから離れて何も持たないのです。イエス・キリストを離れるものは何も必要としません。

(手紙は神の愛が神が子に用いるむちにあらわれると言っています。神はいつも良いこと、最善なことを快適な形にまかされません。先日薬を飲まねばならなかった 小さな男の子のことを聞きました。そのことは(その子に取って)あまり愉快なことではありませんでした。彼の父親は言いました。「この薬にはビタミンがたくさんあります。」男の子は言いました。 「お父さん、なぜ全部いいものはいやなものに入れられねばならないのですか。なぜアイスクリームに入れることができないのですか」主はいつもいいものをアイスクリームに入れられるわけではありません。時にはビタミンはいやな薬の中にあるのです。
 さてそのことはこの手紙が言っていることにぴったりです。神が私たちをそのようにお取り扱いになるとき、私たちを罪に帰せられるのではありません。神は私た ちを解放するために働かれます。ただ、もしあなたがここにあるこれらの話があなたを救うのだと思っているなら、あなたは誤解しているのです。それらは神がなさっていることを説明するものに過ぎません。神は理論によっては決して救われません。)

あなたはキリスト教の教義についてかつて書かれたものをことごとく読むことはできましょうが、相変わらず同じ男性あるいは女性であり得るのです。神の方法は (それとちがって)非常に実際的です。神は経験によって私たちを教えるのです。その経験は時には非常に理解しにくく、ヘブル人の手紙のここでは(訳 注:12:7)「子の訓練」と言われています。

主イエス様が私たちの心に何度もこれらのことを焼きつけて下さいますように。神はそれでもなお御子のうちにあって語っておられます。そして神の語りかけは御子の仲間(兄弟)を得るためであります。この天からの召しを受ける仲間、キリストの仲間(聖徒)は厳しい学校に入り、多くの厳しい課程を学ばなければならないでしょう。しかしそれらを学んで一人一人が主イエス様にあって受け継ぐものがどれほど偉大であるかを理解するようになることでしょう。

(これにつけくわえたいのです。私の経験によれば、誰も苦難なしには本当に霊的な知識を身につけられないということです。頭の知識について話しているのではありません。内なるいのちにある主を本当に知ることについて話しているのです。苦難を抜きにそのことを知るにいたったと言う人を私は誰も知りません。恐らくそれは口に出すのも憂鬱なことでしょう。しかしそこに神のみことばにある法則があるのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(2 コリント4:7)そしてこの土の器が試練と苦悩をとおしてどんなに貧しいものかを学びますが、一方で主がどんなに素晴らしいかを学ぶのです。
 ヘブル人への手紙は言います。「後になると」(それは、懲らしめのあとです)「平安な義の実を結ばせます。」(12:11)何というすばらしい聖句でしょう。これらの実は懲らしめの線に沿って、そして苦難の方法によって生ずるのです。そのように私たちも使徒が苦難のうちに喜んだに違いないその恵みを求めましょう。)

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003382.htmlです。このOn-high callingは1963年スイスの年会で語られたものの記録のようですが、珠玉の文章が11章に分けて記録されています。是非とおして全部読みたいものです。)

2011年7月5日火曜日

キリストの御業を信ずるのがキリスト者です

信じます。不信仰な私をお助けください。(新約聖書 マルコ9:24)

(私たちはこのヘブル人への手紙には神がご計画を持たれる神として表現されているのだと言いましたが、神のご計画は御子のうちに中心があり、かつ御子のうちに集約されていることが続いて示されています。それが私たちの前にこの手紙が始めに三つの方法で示していることです。
 先ず第一に御子の人となりです。ちょっと、こちらをご覧ください。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ・・・」(訳注:ヘブル1:2~3)あなたは第一章の全体が神の御子の存在で占められていることに気づくでしょう。神は御子について御子がどなたであるかを語っておられます。これはまた何と偉大な御子であることでしょうか。
 次に贖いの用語を用いて御子が表されています。「御子は罪のきよめを成し遂げた」(訳注:ヘブル1:3後半)それはまさしくワンフレーズですが、以下の多くの章は続いてその贖いがどんなものであるかを説明しています。祭司職といけにえに関してこれらのすべての章はその一節と関連しています。神は御子によって贖いを語られるのです。
 三つ目に神は御子によって栄光に関して語られるのです。御子は「神の栄光の輝き」であり、神は「多くの子たちを栄光に」(ヘブル2:10)導かれるのです。なぜなら、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(訳注:ヘブル1:3)神は神が今や栄光をあらわされ、ご自身の右の座に着かれたと語られるのです。
 けれども神は御子によって語られただけで、そのままにしておかれる方ではありません。二章では神が人を栄光の座へと導かれることに注目することでしょう。この手紙は人に対するすばらしいメッセージを携えているのです。神が御子によってなされたことは全部人のためなのです。神はこの手紙によってキリストの完成された働きを語っています。その働きこそ人のために完成されているのです。)

ここにあなたと私が立脚しなければならないものがあるのです。個人的には私は絶えずこのところに導かれます。私は自らを信じるようにということを、いまだに完全に学んだことがありません。そうではなく、私はキリストの完成された働きを信じているのです。しかし、時々私はどんな人もそうでありうるように自分自身に関してはみじめになるばかりです。自分があわれなものであるがゆえに、ほとんどお手上げの状態によくなります。もしこの世で私が原因でキリスト者の働きを諦めねばならないものがあるとしたら、それは私自身です。

あなたは私が言わんとすることを理解してくださるでしょうか。ああ、私たちはどれほど自分自身のうちに見いだすものによってがっかりさせられることでしょうか。だから私たちは自らを信じないのです。私たちはキリストの完成された働きを信ずるのです。そしてその神はそのすべての完成された働きを私たちの勘定書となさるのです。神は私たち自身のうちにある私たちを見られないのです。神はキリストによって私たちを見られるのです。神は私たちを見られません。神は私たちのうちにおられるキリストを見られるのです。私たちはそのことを信じていないのではないでしょうか!もし本当に信じていたなら、私たちは自分自身から解き放されて、実に勝利を遂げたキリスト者となることでしょう。

もちろんそのことは私たちがちょっと何ほどか行儀良く振る舞うことを意味してはいません。私たちは間違って話をし行動するかもしれませんが、すべてのキリスト者にとって避難所があるのです。それは恵みの座席ともいうものです。それはなされてはいけなかったことでした。しかし貴重な血が流されているのです。それは血を流されてはいけなかったことでした。しかし血が流されるのです。私たちのために仲立ちをしてくださる大祭司がおられるのです。私たちが必要としているものが全部あるのです。その働きは片付けられ完成されているのです。ああ、私たちキリスト者は自らの信仰を信じなければならないのです。私たちはキリスト者の信仰から出るものを両手でしっかりつかまえねばなりません。
(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003246.htmlです。)

2011年1月30日日曜日

信仰の創始者・完成者であるイエス

ドイツ・フィリンゲンの教会扉に刻まれていた銅版絵
「人間をとる漁師にしてあげよう。」と読める?
イエスから目を離さないで・・・(新約聖書 ヘブル12:2)

ヘブル人へのこの手紙にはパウロの生き生きとした息吹が感ぜられます。「イエスから目を離さないで」と。この手紙を実際に誰が書いたとしても、パウロ(の人柄)が文章に影を落としています。彼の影響が至るところにあります。確かに彼はイエスから目を離さないように心がけていました。

このことは私たちにとっても学ぶべき大変重要な課題であります。クリスチャン生活において何度も何度も学ばなければならないことです。もし私たちが主イエス様以外のものに目を奪われるなら、全く(生活は)めちゃめちゃになってしまいます。

ところで、神の聖徒に対しては十分注意しなさい。私はあらゆる神の聖徒を疑いをもって見ることを勧めているのではありません。また「ご存知の通り、彼は完全でない」と言うべきだと言っているのではありません。尊敬しなければならない人は尊敬すべきです。しかし、あなたの信仰は、たとえその人がどんなにいい人であっても、その人の上に築き上げられてはならない(と言いたい)のです。

それに、私たち自身に関するなら―いいですか、私たちは他の何物よりももっと自分自身を見る傾向があるのじゃないかと思います。このことは本当のクリスチャンの課題の一つです。私たちは絶えず自分自身や自分に関わる事物から目を転ずる必要があります。この自我ほど私たちを落胆させるものはありませんし、私たちを誤らせるものはありません。私たちの判断はすべて間違います。私たちの思考もまたそうです。いずれも神の考えではないからです。

私たちは目を自我から転じなければなりませんが、空(くう)を見、空しくなるのではありません。「イエスから目を離さないで」という文章はそのあとどのようにして終わっているか知っているでしょう。その文章は「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」となっています。

あなたが信仰を始めたのですか。あなたはクリスチャンになりたいと決めたから今クリスチャンなのですか。そうなんです。主はあなたが決心したから、あなたを助けるのです。(と言うのですか)

とんでもありません。主がこのことを始められたのです。「私を見つけたのは主でした。私に手を差し伸べて下さったのは主でした」と言うことができることが喜びとなっていないのでしょうか。主が次のようにおっしゃることはまことに真実です。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15・16)主は信仰の創始者でした。さらに手紙は言います。主は信仰の完成者である、と。主は必ず信仰を完成なさいます。

私たちが天国に行ったら、かつて経験したことのない驚きで一杯になるでしょう。私たちは他の聖徒と見合って言うことでしょう。「やあー私たちはここにいます。素晴らしい部屋ですね。どのようにしてここに来たかわかりません。こんなところには決して来れないと何度も考えましたよ。しかし、今ここにいるんですね。」そうです。それはイエス様が(信仰の)完成者であるからです。

愛する友の皆さん!このことを信じてください。あなたが落胆し困難に会っている時、目をイエス様に向けてください。イエス様は言われました。「わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)、と。たとえ何度奇跡が起ころうとも、主は私たちを天国へ連れて行くために働いてくださるのです。そのことを信じてください!両手でしっかりとその真理をつかみ、主を信じてください。そうすれば栄光に嘉(よみ)せられることを体験なさるでしょう。

なぜならそれこそこの手紙が示す偉大なものの一つであるからです。「多くの子たちを栄光に導く」(ヘブル2:10)とあります。そのことはあなたにも私にもあてはまるものなのです。

(引用はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003028.html
 The On-High Calling Volume 1 - Chapter 9 からの抜粋である。)