信じます。不信仰な私をお助けください。(新約聖書 マルコ9:24)
(私たちはこのヘブル人への手紙には神がご計画を持たれる神として表現されているのだと言いましたが、神のご計画は御子のうちに中心があり、かつ御子のうちに集約されていることが続いて示されています。それが私たちの前にこの手紙が始めに三つの方法で示していることです。
先ず第一に御子の人となりです。ちょっと、こちらをご覧ください。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ・・・」(訳注:ヘブル1:2~3)あなたは第一章の全体が神の御子の存在で占められていることに気づくでしょう。神は御子について御子がどなたであるかを語っておられます。これはまた何と偉大な御子であることでしょうか。
次に贖いの用語を用いて御子が表されています。「御子は罪のきよめを成し遂げた」(訳注:ヘブル1:3後半)それはまさしくワンフレーズですが、以下の多くの章は続いてその贖いがどんなものであるかを説明しています。祭司職といけにえに関してこれらのすべての章はその一節と関連しています。神は御子によって贖いを語られるのです。
三つ目に神は御子によって栄光に関して語られるのです。御子は「神の栄光の輝き」であり、神は「多くの子たちを栄光に」(ヘブル2:10)導かれるのです。なぜなら、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(訳注:ヘブル1:3)神は神が今や栄光をあらわされ、ご自身の右の座に着かれたと語られるのです。
けれども神は御子によって語られただけで、そのままにしておかれる方ではありません。二章では神が人を栄光の座へと導かれることに注目することでしょう。この手紙は人に対するすばらしいメッセージを携えているのです。神が御子によってなされたことは全部人のためなのです。神はこの手紙によってキリストの完成された働きを語っています。その働きこそ人のために完成されているのです。)
ここにあなたと私が立脚しなければならないものがあるのです。個人的には私は絶えずこのところに導かれます。私は自らを信じるようにということを、いまだに完全に学んだことがありません。そうではなく、私はキリストの完成された働きを信じているのです。しかし、時々私はどんな人もそうでありうるように自分自身に関してはみじめになるばかりです。自分があわれなものであるがゆえに、ほとんどお手上げの状態によくなります。もしこの世で私が原因でキリスト者の働きを諦めねばならないものがあるとしたら、それは私自身です。
あなたは私が言わんとすることを理解してくださるでしょうか。ああ、私たちはどれほど自分自身のうちに見いだすものによってがっかりさせられることでしょうか。だから私たちは自らを信じないのです。私たちはキリストの完成された働きを信ずるのです。そしてその神はそのすべての完成された働きを私たちの勘定書となさるのです。神は私たち自身のうちにある私たちを見られないのです。神はキリストによって私たちを見られるのです。神は私たちを見られません。神は私たちのうちにおられるキリストを見られるのです。私たちはそのことを信じていないのではないでしょうか!もし本当に信じていたなら、私たちは自分自身から解き放されて、実に勝利を遂げたキリスト者となることでしょう。
もちろんそのことは私たちがちょっと何ほどか行儀良く振る舞うことを意味してはいません。私たちは間違って話をし行動するかもしれませんが、すべてのキリスト者にとって避難所があるのです。それは恵みの座席ともいうものです。それはなされてはいけなかったことでした。しかし貴重な血が流されているのです。それは血を流されてはいけなかったことでした。しかし血が流されるのです。私たちのために仲立ちをしてくださる大祭司がおられるのです。私たちが必要としているものが全部あるのです。その働きは片付けられ完成されているのです。ああ、私たちキリスト者は自らの信仰を信じなければならないのです。私たちはキリスト者の信仰から出るものを両手でしっかりつかまえねばなりません。
(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003246.htmlです。)
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