Ich liebe die japanishe kultur と読める。人の悲しい性である。(高崎、洗心亭) |
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)
キリスト教は始めには存在しなかった巨大な集積物となってしまいました。今日見るところのキリスト教は非常に複雑なものです。人の手により神のことがなり、彼ら自身の判断に沿ってこの大きなものを築こうとしてきたのです。ですから、ことごとく混乱があり、分離が生じ、複雑になっているのです。キリスト教の中で歩むことは本当に難しいです。キリスト教がそれ自身の大きな障害となってしまったのです。(51頁)
この国(訳注:フィリピン)のあちらこちらをまわり、またこの町(訳注:マニラ)もまわられると、屋根に十字架をかかげた大きな宗教建造物をご覧になるでしょう。そして人々がこれらの建物に入って行くなら、お互いに挨拶を交わします。皆さんが大変敬虔に見えます。そして人々もこの建物は大変神聖だと思います。もしあなたがそこで何かで邪魔をしようものなら、不敬虔だと言われます。けれども神様にとってそのことは全く意味のないことです。
神様にとって大切な唯一のことは素晴らしい建物でも、その堂内の素晴らしいことでも、屋根の上に掲げられている十字架でさえありません。大事なただ一つのこととは神様がそこに臨在されるかどうかです。神ご自身は今この場所におられますか。
(神様にとって、もし神様が臨在されるところでないなら、他のどんなところとも違わないのです。もちろんここにいらっしゃる皆さんのほとんどは今朝そのことに同意されますでしょう。)
けれども、神の家に来ることについてこのように話される集会に集って話を聞いている私たち自身はどうでしょうか。恐らく彼らはこの集会所にやって来る時、「今朝、神の家に出かけるのです」と言うことでしょう。そして祈る時には「今朝、神の家におられて大変うれしいです。主の家にいることは素晴らしいです」と言うでしょう。一体何がある場所を神の家とするのですか。この場所を聖別するのは何でしょうか。いやしくも神聖であるというなら、何が神聖にするのでしょうか。建物ではありません。神聖な建物でもありません。ここに参集している人々の集まりでもありません。そこを神聖にするのは主が臨在されるということです。
主は場所とか集まりとかに関心は持たれません。主がご自身の場所を喜んで臨在できる場所かどうかが唯一の関心事なのです。今、あの荒野の天幕はどこにあるか知りたいと思います。地下深いどこかに埋められていると思います。ソロモンの立派な神殿は今どこにあるかとも思います。しかしそれを見つけようとするのは時間の浪費だと私は思います。ご存知の通り、神様はこういうものを埋めてしまわれたのです。
(いいでしょうか、それらは非常に神聖でした。だから神様はそれらを保持しなければならなかったはずです。しかし神様はそうなさらなかったのです。天幕が本当の意味を実現しなくなった時、神様にとってもはや神聖でなくなったのです。神殿が本当の目的を達成するのをやめた時、神様だけはそれを放置なさいました。神様は異邦人がやってきて壊すままにされました。主のご目的・ご計画は主の御臨在であります。)(52~53頁)
キリストのものでないすべての物は解除されます。誤解しないでください。キリスト教のあらゆる体系は着々とキリストにしたがって試みられつつあるのです。
(キリスト教はただそれがどれだけ神様の聖霊の働きなのかキリストにしたがって試されるのです。やがてもう一度主は言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(訳注:ヘブル12:26)揺り動かされるものは将来取り除かれるのです。揺り動かされないものがいつまでも残るのです。それではいつまでもあるものは何でしょうか。荒野の天幕ではありません。イエス・キリストです。すべて、キリストにあるすべてだけがいつまでも残るのです。)(56~57頁)
(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003293.htmlです。)
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