あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。(新約聖書 ヘブル13:21)
(パウロは彼の手紙の中で繰り返し「神の計画に沿って」召されている人のことについて語っています。エペソ3:10~11にこれらの明確な宣言の一つがあります。「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、永遠のご計画に沿ったことです」私たちはそのことを未来時制だと思うかもしれません。しかし明確に「今」と言われています。神は、支配と権威を教えるご自身の教会に、今、事をなしておられるのです。私たちは神が私たちを取り扱っておられるのを眺めている目に見えない霊的存在によって取り囲まれているのです。彼らは私たちが通過しなければならない体験、そしてそれは私たちが神の永遠の計画と一致しているものですが、それらを見ています。
その計画とは何ですか。その計画は私たちが神の御子の似姿に一致するということです。エレミヤ18:2~3に読むことができます。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。・・・ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。」支配と権威が、言わば陶器師の家に降りて来て、彼らは眺めているという案配だ。陶器師の手にある器は何ですか。それが教会なのです。しかし天の陶器師は器に満足していません。彼はそれを壊し、そして、新しいものを造らねばなりません。今やその粘土はろくろの上にあり、あらゆる種類の神の取り扱い、働きかけがなされねばならないのです。
これらの目に見えない霊的存在はどのように天の陶器師が私たちを形造るかじっと見つめているのです。私たちは粘土です。時々陶器師の手の圧迫を感じたり、陶器師が教会を造り直している間は身の切られる思いを経験します。しかしあらゆる私たちの試練、苦しみ、私たちの困惑はただ神が私たちをゴールへ連れて行かれる道に過ぎないのです。彼のすべてのお取り扱いは私たちの上に効果を現し、私たちを変えるのです。そして高きにいます霊的存在はそれを見て、どのようにしてキリストが私たちの上に徐々に徐々に形造られて行くかの神の知恵を知って賛嘆することでしょう。それが私たちの召しであります。)
私たちが神の計画と真っ直ぐつながっているかぎり、神のわざは私たちのうちに行なわれるものです。すべてにまさって大事なことは私たちの働きではありません。神は私たちが神のためになすことよりも私たちのうちにあってなされることに関心をお持ちです。神はしばしば、私たちがたくさんの働きをしているときよりも、何もしないでいる時の方がはるかに目的を成し遂げられるのです。
陶器師の手はモーセが全く何もできなかった荒野にいた時に働いたのです。40年間彼は数匹の羊を世話していたに過ぎませんでした。そのことはそんなに素晴らしいことではありません。モーセが時々自分は何の目的で荒野にいるのか、また自分の人生は果たして価値があるのだろうかと疑問に思ったことは疑いありません。しかし天にある支配と権威はこの大した人物を見、神の知恵に驚いたのです。神はこの男を完全にする方法、その生活において神の道を取らせる方法を知っておられました。それは多くの神のしもべの場合にも真実であります。
神は良きことのために働いておられます。ご自身の器を造っておられるのです。私たちを扱ってくださる神の知恵があります。しかし私たちはそのことを知って、自らの計画や個人的な野心が必要でないことを知らねばなりません。粘土は完全に神の御手にあらねばならないのです。もし私たちが本当に神のためにこの地上生活を送っているのなら、神がご自身の目的を達成し、私たちのうちに神はそのご計画を成し遂げることがおできになるのだと確信させられることでしょう。そこにこそ私たちは力を見いだすのです。
あなたは自分が神の偉大な計画のうちにあることを確信しておられますか。誰もが神の計画の何らかの一翼をなしているのです。パウロが教会について語るとき、次のようにたとえています。「からだ全体は、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(訳注:エペソ4:16)てと。からだのどれ一つとっても働きのない部分はありません。めいめいが、また誰もが神の計画のうちにあらねばなりません。ある部分は非常に小さいかもしれません、しかしそれらは等しく重要であります。
私たちは神が私たちを一つの計画をもって召されたことを忘れてはなりません。その計画とは、私たちが自分自身を神に明け渡すことを悟ることであります。神が私たちを召されたことがたとえどんなことであったとしても、その備えをし、それを行ないましょう。生活を送らせる聖霊はつねに目的によって特徴づけられます。そのような生活にあっては私たちが失うものは何もありません。単なる一般論は信じないようにしましょう。それは十分ではありません。私たちの生活に対する神の考えにはかなり明確なものがあります。
すべての個人的な願望は捨てましょう、そして「すぐに」と迫って来る御霊に満たされましょう。神から召されていることを知り、自分たちの生活の目的を明確に認識している人々は明け渡すようになります。もはやこの地上の諸物に対していかなる関心も持ちません。彼らには一刻の猶予もないのです。時を上手に用いねばなりません。
(今や私たちの生活は栄光のうちにある主イエス・キリストと一致します。神の永遠の計画は天において支配と権威が支配するのと同様に宇宙的な次元をともなって広範囲に支配するのです。イエス・キリストの教会は大きな計り知れない神の計画にまかせられています。このことを知ることが力を意味するのです。このことを知れば、私たちは混乱と試練の時に(それを通して神はご自身の計画を働かせておられるのですが)平静でいられるだけでなく、主が言われたように世が私たちから奪い去ることのできない平安と喜びにも満たされるのです。
私たちには天に召される召しという神の偉大な計画があります。だから私たちの生活には偶然の出来事というものは何もないのです。時は神によって定められているのです。私たちは神の約束の中にいるのです。神の計画はまだ完成していません。キリストがこの地上に来られることはその最初の段階に過ぎませんでした。しかしキリストが天におられるので、今や教会に関する神の計画のより完全な完遂があるのです。ですから、すべてのことにおいて、私たちの天の父なる神の御意志を主を信頼して認めましょう。恵みによってゴールに達することを信じて御霊にあってそのゴールに目を向けていましょう。)
(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 10 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003288.htmlです。)
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