2011年7月18日月曜日

聖霊にところを得しめて

碓井峠(軽井沢から横川へ降りるバス車内から)
あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。(新約聖書 ガラテヤ5:7)

何かが霊的な競争にあって走るのをやめさせて、妨げたのです。このことは極めて深刻で、パウロの心胆を寒からしめることでした。ガラテヤ人の場合にもう一度生まれながらの人間が出て来たようですが、この度は感情の領域に関わることであったようです。ガラテヤ人が、キリストがたとえで土の薄い岩地についておっしゃったことばと一致するそのような気質から出て来たようです。種(訳注:マルコ4:3以下他参照)は急激に熱心に受け入れられたのですが、収穫を生み出すには至らなかったのです。このように熱心にスタートを切り、全く活発に働くのですが、それが持続しない人がいます。ここに述べられたガラテヤ人はそのようでした。

彼らは非常に素晴らしい応答をしたのです。 声高に自らの信仰を主張したのです。ところが非常に急速にその競争から落後したのです。なぜでしょうか。それは、彼らが自らの感情や感覚の上で生きていて、それらは変わりやすいものだったからです。このことは気質の問題かもしれませんが、そして事実そのような性格的なことは私たちのほとんどのうちに見いだし得るでしょう。私たちは訴えに応答し、大きな感情の力のもとにくだり、それから萎えるのです。主イエス様のおことばのうちに「困難や迫害が起こると・・・つまずいてしまいます」(マタイ13:21)とあります。

もし皆さんも私も最後まで耐え忍ぶつもりなら、その時は生まれながらの情動による生活よりももっと大きな力を体験しなければならないことは明白です。ただ一つの望みはパウロが「キリストの愛が取り囲んでいる」と言うようにそのことが私たちにとって本当であることです。この愛の力のことに関しては生来のものと霊的なものとの間には大いに違いがあります。この「取り囲む」と訳されている言葉は、「イエスを監視していた男ども」(ルカ22:63)と言う、イエス様の捕縛の時に用いられた言葉と同じものです。

監視人たちはイエス様を買い取りました。彼らはイエス様を逃させないようにしました。イエス様が賞金で、捕縛する報酬を期待していたのです。だからキリストの愛が私たちをとらえている、つかんでいるということは、私たちの生来の情動を御霊の大きな力によって征服しているということであります。私たちの感情は起こっては消えるものです。感情というものは時々は強いかもしれませんが、また非常に弱くなり得るものです。

もし私たちがキリストの愛という力強い支えについて何も知らないなら、非常に骨の折れる競争の最後までは決して走り抜けないでしょう。なかんずくキリストの満たしとなるものはキリストの愛であります。もし私たちがついにその満たしに至るのなら、それはキリストの愛の力に取り囲まれ、つかまえられることによって初めて可能なのです。「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げたのですか」その答えは情動の力で走り、神の召しを受けたとき感情に影響されていたので、自らの熱心さで応答するかのように走ったのです。ガラテヤ人への手紙は、主を信ずる者の生活で、聖霊の占める位置がどんなに大切であるかを強調するために上梓されているのです。と申しますのは聖霊お一人だけが私たちがよく走り続けるために必要な愛の力を供給できるお方だからです。

(今日の箇所は God's Purpose in All - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003286.htmlです。)

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