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2011年6月24日金曜日

神の御国に入るための安全性の原則

月曜日、義妹の玄関先で見かけた珍しい花。その時は気がつかなかったが、蟻がいる、いる
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、・・・与えられたもので・・・(新約聖書 2テモテ1:9)

私たちは何か新しく、かつ違った歩みや、また何かの新鮮な計画や立場に直面させられる時はいつでも、全てに関連する一つの問いがあるものです。その問いは明らかにされるべきものであり、熟考しては、繰り返し真剣に祈り求めるために十分な時間を必要とされねばならないものであります。その問いとは、「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致しているか、決して断片的でなく、みことばの全体に照らし合わせてみて」ということです。神様は私たちを疑いなき状態に置かれました。それは神様がご自身で介入なさる究極的な目的として見える形ではっきりと区別されるご計画をお持ちだということです。神様はまた、その計画がどんなものであるかを非常に明瞭なものとなさいました。さらに信者たちは「神様の計画にしたがって召されていること」と、それに「召しと選びが確かなものとされる」ためであることがはっきり示されるのです。

(長年、前進し続け、神様のしもべとして大いに用いられた人は、その生涯の終わりに向かって、自らの最大の関心は「キリスト・イエスによって捕えられ、それを得るようにしてくださるように願っている」ことであると言いました。)

すべての真のキリスト者の仕事と責務とはその「永遠のご計画」がどんなものであるかに関して学べば学ぶほど極めてはっきりしてくるということです。そうしたならば、私たちが従事するために起こされるあらゆることはその計画を判断する桟のような役割を果たし、その光のうちに問いただされることになるに違いありません。もしこのことをたずねもとめることに真剣でなかったり、与えられる光に従わないなら、神様は私たちの行く道を妨害なさらないし、道を進む上でいかなる分岐点にあっても特別光を与えられないでしょう。とてもじゃありませんが、私たちが正邪や善悪を比較したり、許容範囲、望ましさ、便宜かそれとも方針なのかを比較したりすることに影響されたままにはされないのです。野心や自己満足や「主のため」に広げられた見通しやキリスト教におけるより広範囲な受容やその他いかなることも私たちの判断を色付けしたり、私たちの決定に影響してはいけないのです。有利か損をするかはここでは決定要因として無視されます。

一つの問題、そして一つだけが悲劇か栄光かを決定することでしょう。「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致するものか」であります。目的が達せられ、完全な物語が話され、総決算の時、このことと密接な関係を持つどれだけが、キリストにあることの内実を全然持たず、それゆえに永遠にまで持ち越すことができないものとして剥ぎ取られることになるのでしょうか。神様の川は何を取り除かれ、天では何が浮上するのでしょうか。(これがパウロがコリント人への手紙につけ加えた大きなテーマでした。)

(今日の箇所は The Danger of Coming Short の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003232.htmlです。このシリーズは三度目の登場です。他の部分と比較して読まれますように。なお文章が非才のこの者には難しく、まちがって訳しているところがある、と思います。原文を必ずご確認ください。)

2011年3月21日月曜日

主を恐れる心の必要性

春来いと ラッパ水仙 さんしゅゆ 黄色ふんだん 絞り出す神
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:1)

新約聖書の書き手のように、神の民の霊的生活に対して本当に重荷を覚え、責任感のある人々にとって、もっとも心を痛めることの一つは、主とともにまっすぐ歩む約束をした、かなり多くの人々が何らかの脱線に会い、神様が意図しておられることとは別のものや、はるかに少ししかないものへと向きを変えてゆくことです。それは必ずしも罪や世に対してでなく、彼らが一時的にかなり満足する方に向かうということです。

その結果、霊的成長が抑えられる転換が明らかになり、彼らが後退し、停止してしまい、「神様に全面的に相談する 」かわりに別のことで心が一杯になります。彼らの「新発見」や「光」や「導き」は、彼らが話すように、何らかの緊張をなくしたり、問題の解決であったり、自己実現への道が開かれることの約束であったり、圧迫感からの逃避からだと言うのですが、それらはめずらしさや魅惑的なことがなくなる時、いずれも「ニセの飲み水」であったことが明らかになるのです。それは収穫を見ないうちに落ちてしまうエリコの果物を生産しているようなものです。

神様の永遠のご計画の道にこのような悲劇がばらまかれているのです。聖書は、新旧両聖書とも多くの人々の悲しい話を記録しています。それらの人々は道を見失い、脇道にそれ、パウロのことばや懸念を用いるならば、「上に召してくださる神の栄冠」(ピリピ3:14)を手に出来なかったのです。新約聖書はその大部分が、こうなる可能性が存しますので、また絶えずひそんでくる危険性が悲劇的な不測の事態を招きますので、警告、勧告、奨励や懇願で占められているのです。

ヘブル人への手紙には七個になる文脈で小さなことばですが「・・・のことがないように( lest)」ということばが霊的経験の中での最も恐ろしい事柄のいくつかとつながっており、長い(失敗の)歴史の理解をもたらします。私たちが目的とするのはその歴史を跡づけたり、多方面の文脈の一覧を設けたりする不可能な仕事をしようとしているのではありません。私たちが何をさておいてもしなければならないことは一般的な安全の原則を明確に述べることであり、それとの関連で一二の危険性の例示をすることにあるのです。※

危険や誘惑は、抜け目なく巧妙に「えさ」に応じてやってくることでしょう。最も霊的である人が最も霊的なように見えるものを持ち、出現させられるでしょう。私たちの際立った気質が私たちに固有の危険となることでしょう。 (だから)感情、嗜好、議論や持って生まれた魅力によるのでなく、つねに(安全の)原則によって支配される必要があります。知性による一時しのぎ、情緒的な興奮、活動に伴う充足感は疑われねばなりません。一つの問いが重要視されねばなりません。一体これはどこに導くのか。それはどうしてもなくてはならないものなのか、もともと神様の卓越したご計画と関わりがあるのだろうか、という問いであります。

(今日の箇所は The Danger of Coming Short 「はいれなくなる危険性」の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003101.htmlです。なお※以下は本文では約1頁にわたる詳細な安全の原則が述べられていますが、今日の箇所ではいっさい省略されていて、次の最後の文節につながっています。さらにその後ろに以前2月15日に「かき乱す者たちの存在」の題名で訳出しているものが続くことになります。これも関心のある方はそちらの方もお読みくだされば感謝です。さらに意味が鮮明になることでしょう。)

2011年2月15日火曜日

かき乱す者たちの存在

昨晩は雪が降り積もり今年二回目の積雪となったが、その数時間前のうそ寒い古利根川で見た風景である。
あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。(新約聖書 ガラテヤ1:7)

神様のみわざの歴史の始めから終わりまで、大きな妨害者による攻撃が混乱だったことを認識するにはたくさんの知性を必要とはしません。神様は混乱の神ではなく、秩序の神様です。サタンは混乱の神です。

混沌状態から秩序を引き出すために神は「光よあれ」と言われました。ところがサタンは秩序から混沌状態を引き出すために「混乱あれ」と言います。サタンの固有の性質は問題と原理を混同することにあります。このことを行うためには、みことばが暗示しているように、構成上ちがっているものを融合し(あるいは融合しようとし)両者を切り離します。かくして構成上の不一致・矛盾が生じます。

私たちが完全に手のつけられない邪悪を身につけるのはサタンが主となって荒らしまわる時だけです。サタンの主な働きは混同によるごまかしです。

神の子どもの生活における聖霊の位置、意義、支配が重要性を持つのはまさしくこのような場合です。聖霊は「真理の御霊」です。聖霊お一人が真理が終わり偽りが始まるところを知っておられます。私たちが本当に「御霊のうちを歩く」時だけ、私たちは真理を知り、間違いから守られるのです。御霊のうちを歩くことは「心の割礼」すなわち肉と霊、キリストと自我との間で分離がなされている心を必要としています。

かなり善良な人々をだますだけの十分な真理を持ち合わせていない異端というものは決して存在しません。同じように、神の完全性は微塵もなく、それは疑わしいとか「危険」だとかと、何となく暗示を与え、思わせ、演技して来た悪魔の策略以外にありません。サタンは実に同じことを主イエス様ご自身にしたのです。それはパウロの全生涯を通しても言えます。

ピリピでの悪魔に取り憑かれた少女のスポンサーはパウロとシラスの福音伝動を妨害しました。(福音伝動は)のろわれ、傷つけられました。だから私たちはこう言わねばなりません。善いことは混乱されるかその真の意義を剥奪されるかして、それ自身の敵とされ得るのです。

(今日の箇所は The Danger of Coming Shortの抜粋引用訳である。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003044.htmlであるが、一部付け足して訳した。なお訳そのものもおかしなところがあるにちがいない。原文で確かめご指摘願いたい。)

写真にちなんで(続き)
一昨年もこの鳥の獲物を仕留める姿に遭遇して、2009年11月27日のブログで紹介したことがある。この写真を見る限り平和な風景に見える。しかし、実はこの場面で彼が水中を眺めているのは魚を見てのものだ。以後その獲物はこの一羽の独占するところとなった。いつの間にかその後、数羽が飛来してきたが、いずれも形(なり)は小さく、こどものようであり遠巻きに見ていたに過ぎなかった。この鳥の名前も無知でわかりません。どなたか教えてください。さて、昨日の鳥の名前は「つぐみ」でした。ブログを読んでくださった方から教えていただいた。感謝します。