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2011年11月1日火曜日

神を見えなくさせる力

散歩途中の野菜畑の一角に菊が五つ固まりほどあった。創造主の色の配慮よ!
イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 (新約聖書 2コリント3:14)
 霊的盲目である(訳注:神を信じられない)ことの理由

原因については一つ二つのことば(が考えられます)「この世の神がくらませた」その句には二つのことがらがあります。まずこの盲目とは結局は単なる自然なことではなく、超自然的なことであります。生まれつき盲目であると言うのはすべてを言ったことにはなりません。そうなのです、この盲目についてはそれよりもはるかに邪悪なものがあるのです。超自然的な盲目ではありますが、邪悪な超自然的な盲目であります。それは悪魔の働きです。それが一方で霊的な視力が与えられるには常にそのような恐ろしい闘いがなぜ伴うのかという理由であります。

誰も闘いなしには、また価を払うことなしには、そして恐ろしいまでの苦悩なしには、決して本当に御霊によって見え、理解するようにとはならないのです。( No one ever really does come to see by the Spirit and understand without a fight, without a price having to be paid, without a terrible amount of suffering.) 真の霊的照明と啓蒙はいかなる部分も犠牲をともなうものです。そのためにパウロは聖徒に関して膝を屈しなければならなかったのです。「私はひざをかがめて」「私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように」祈ります。(エペソ1:17)それは祈り抜かれなければならないものであります。エペソ人への手紙が6章で啓示されることと関連が大変重きをなすことに意義があるのです。

「私たちの格闘は主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから神のすべての武具を取りなさい」あれやこれや 「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:12〜18)「この暗やみ」「絶えず祈る」「私は神があなたがたに神を知る知恵と啓示の御霊を与えてくださるように祈る」ご存知のように全部一つのことです。説明はここに、すなわち「この時代の神」にあるのです。私たちはこの霊的盲目のうちにある超自然的なものと対決しているのです。私たちはまさしく悪魔という全宇宙的な力、すなわち人々を盲目の状態に維持するように働く霊的存在と戦っているのです。)

真に霊的な視力を持つことは小さなことではありません。それは驚くべき勝利をあらわしています。そのことは単に受動的に座っていて、見えるように口が開くこ とによって実現するものではありません。このことに関する訓練がなければなりません。あなたが本当に霊的理解を求めようとする時、この時代の神の完全な力に抗して立っているのです。それは超自然的な闘いです。ですから、真の啓示の宣教となることはいかなる宣教の部分も闘いに巻き込まれます。前にも闘い、渦中にあっても闘い、後々まで闘いがあります。闘いとはそのようなものです。

それで、ここで光について訓練される必要があるのです。それはあなたが聞いているとは言え、聞いたならわかったと鵜呑みにしないことです。その後、あなたは主に対して明確に処理しなければなりません、また、主があなたに打ち破るように求めておられることが始められねばなりません、そしてことばを聞いたからと言って今や知っていると思い込んで自らを欺かないことです。あなたはそれを知らないかもしれないのです。まだ光が生み出されていないかもしれないのです。このことに必要な闘いがあるかもしれないのです。

もし私たちがそれを知るに留まっているのだったら、生活において生ずるたくさんの闘いは、神が私たちの目をご自身に向かって開かせ、御子の光へと私たちを連れ込むための道に私たちをもっと連れて行こうと求めておられるからで す。神は私たちの霊的水準が広げられることを望んでおられます。それに対して敵は反対し、助けることができたとしても助けるつもりはありません。闘いが発生するのです。私たちはそのことを理解できないかも知れませんが、極めてしばしばそのとおりなのです。すなわち主は物事の背後におられます。サタンは言います、もし私がそれを助けることができても彼らは見ないであろう、と。そこで大きな衝突が生ずるのです。この目が見えないことは、ちょうど光が照らされることが超自然的であるのと同様に超自然的なことであります。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 5 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003431.htmlで す。今日訳出しました部分のうち後半部分が該当箇所になりますが、私の英語力では難しく太刀打ちできません。識者の添削指導が欲しいところです。今日の直接の該当箇所ではありませんが、英文を併記したところは訳文に自信がないところです。)

2011年7月27日水曜日

光の授与者イエス

道ばた、溝(どぶ)の上に勢揃いしていたペチュニア
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(旧約聖書 イザヤ9:2)

光が私たちの上に入り込んで来ることとはどんなに大きな出来事でしょうか。また陸地や海に存在しなかった光、上からの光、霊的な光が入って来る時、どのように私たちを暗やみから引き出し、栄光で満たし、見方を変えることでしょうか。主イエス様はその神の光の集約です。主イエス様が神の光なのです。 もし、私たちの目が開かれ、主イエス様がどんなに大切なお方か知るようにさえなったら、どんなに大きな違いとなることでしょうか、どんなふうに束縛から解放されることになるのでしょうか。

必要なことは神の御子には神的な光の授与者の大権が着せられているのだということを知ることです。なぜなら、御子は光だからです。暗やみに、ちょうど、光が入って来て、暗やみを追い出すのは御子あってのことです。それが御子の栄光です。あなたは神の御子の栄光を知ることができます、御子を礼拝することができます。あなたの目が開かれているからです。

御子は今ここにおられます。ちょうど、よみがえりであり、いのちであるお方である御子はいかなる瞬間においてもよみがえりであるのと同じです。それは単に最後の日に限っていないのです。

覚えていらっしゃるでしょう。マルタは言ったのです。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています」すると、主は事実上次のように言われたのです。「やめなさい、わたしがよみがえりです、いのちです。わたしはここに今いるのです。終わりの日はよみがえりに関して今かも分かりません。わたしが今いるなら、時はどうでもよいのです。今がよみがえりなのです。」(訳注:ヨハネ11:24以降)

そのように主はここにおられます。今や新しい創造の光ととともに新しい創造があるのです。のちに光を得るのでなく、今です。それは外からの栄光ある関与によるのです。

世の始まる前から父とともに持っておられたイエス・キリストの栄光、御子の栄光がそれなのです。すなわち主はただひとり光をもたらす神の大権、力をお持ちなのです。誰も光を与えることはできません。その光を獲得することは不可能です。光は主の賜物です、主のみわざです。それが主の栄光なのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003295.htmlです。この6章は「キリストの神の御子としての栄光を見ることの大切さ」が「いのち」と「光」と「主の支配権」についてわかりやすく書かれていて、叙述にぐんぐん引かれて行くところですが、残念ながら訳者の力及ばず、このような訳になってしまいました。誤訳があると思います。変だと思われる方は是非原文をお確かめください。)

2011年7月9日土曜日

再び、お願いします!見えるようにしてください!

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(新約聖書 ヨハネ9:25)

もし、あなたがたと私がある段階に達していることに完全に満足しており、私たちがまだ全然経験していないことが全く必要だとは感じないのなら、果たして前に進むのでしょうか。もちろんそんなことはないのです。私たちが進み続けるためには、主は私たちが主を見、新しい方法で主を知るのに必要なところへ私たちを連れて行かねばならないのです。そしてそのことは目的地に行くすべての行程でまさしくそうであるに違いありません。

主が私たちの目を開かれるように、見ること、何度も繰り返し見ることの危機の連続があるのです。すると私たちは以前見えなかったのに今は見えますと言うことが出来るのです。そのようにしてそれは私たちの研究や学びや私たちの本の知識ではありません。私たちの心の目に光がともされることによる、知恵と啓示の御霊によるのです。権威に着目させることになる、その見えるということは、それほど必要不可欠なものなのであります。それが今日要求されている要素であり、特性であります。ただ単に見るために見るのではなく、新しく権威に心を留めさせるものであります。

今日権威の声はどこにありますか。本当に権威をもって話す人はどこにいますか。私たちは生活のあらゆる分野にわたって、権威の声に大変恋い焦がれているのです。教会は霊的な権威の声を渇望しています。あわせて預言の欠乏に飢え渇いています。「主はかく語り給えり」と。世界もまた権威の欠乏に飢え渇いているのです。その権威は見た人々とともにあるものです。生まれながら盲目であった人が見えるようになった証、すなわち「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」には、全イスラエル、すなわち伝統と教えに満ちたイスラエルにまさる権威があります。

そしてそれがそのような重さをもたらされた主イエス様にまつわることがらではないでしょうか。というのは「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:29)律法学者たちは権威者でした。もし誰かが律法の注釈を願うなら、人々は律法学者のところに行ったのです。しかし主は権威あるお方として語られ、決して律法学者たちのようではなかったのです。その権威とは一体どこにあるのでしょうか。まさしくその権威をもって万事について主は言明できたのです。私はそのことを確信します。それは私がそれまでに読んだり、話を聞いたり、学んで来たことではありません。それは力をともなうものです。そしてそれは次のことです。

私は知っています! 私は見たのです!

主は私たちのすべてを目が開かれた者としてくださるのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003263.htmlです。)

2011年6月13日月曜日

聖霊の働きはどのようにして妨げられるか

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって、悔い改めなさい。(新約聖書 黙示3:19)

私たちがつねに直面する大きな問題があります。それはある者は主の光の中に飛び込んで行き、そのまま進んで行くのに対して、別の者はそうしないで絶えず遅れを取り、もはやそれ以上決して進んで行かないように見えるということです。そのことは神様の側の選びは選ばれることに一種の選びがあり、その選びは神様の恣意的なものがあるのではないかということです。しかし、私はそうは思いません。それに対する答えの大部分は次の事情にあると思うのです。

はっきり申し上げれば、神様は人々が神様と真剣に取り組もうとしているかどうか、その結果、神様がはっきりとした道を持てるかどうか、その基盤になるものが神様にとってすでに障碍であるものによって占拠されているかどうかは、人々をお取り扱われる中でご存知だということです。もし人々が本当に真剣に神様と取り組んでいるなら、主が持たせたいと考えておられるすべての光を得ることはどなたもできると思います。

聖霊は私たちを知っておられます。私たちの心の深いところをまっすぐ見られ、私たちが真剣であるかどうかを知っておられます。主は正確に人が神様を妨げる何があるかを、またどれだけ進めることが出来るかも見ておられます。というのは、主は誰をも強制する御意志は持っておられないからです。もし私たちが自分自身が気がかりで心は自分のことで一杯であり、ぐるぐる自分のまわりをまわっていて自分中心でいるなら聖霊の(働く)機会はありません。自分自身がなくなるところまで来なければなりません。それがかなり多くのものにつきまとう困難です。

彼らは自身の固定観念を設定し、四六時中絶えず、同じところをぐるぐるまわり、出発した同じところに戻ってき、自身のまわりがすべてであり、それぞれ疲れ果てるのです。遠からず、彼らが主のために立っていたり、代表しているとみなされているすべてのことに巻き込まれる恐ろしい衝突を経験するようになり、倒れます。聖霊ははっきりした道をお持ちになれません。

この自己本位に関しては、もし私たちがはっきりあきらめて邁進したいのならその道から脱出しなければなりません。聖霊は正確に私たちがいるところ、すなわち主に対して心を開かないではいかなる光も全然知り得ないように一致しているかどうかを知っておられます。私たちがそれを全部経験しているか、それとも私たちが交わりを持っている人々がそれを経験しているかであり、私たちはその一部分です。私が言わんとする意味はおわかりでしょう。聖霊はそのような位置にいる人々と関わることが出来ないのです。そして聖霊はご存知です。聖霊の態度は「無駄です、わたしはそこでは何も出来ません、彼らが一致し過ぎです」けれども、もしすべてのことを水につけてしまう用意があるなら、その時、主は進むことが出来、はっきりとした道をつけることができるのです。

(聖霊はご存知です。聖霊はあなたも私も知っておられます。私たちが自分自身を知っている以上に多くのことを知っておられます。私たちは自分たちが真剣で長時間祈り、主にあれこれをして欲しいと叫んでいると思っているかもしれません。それに反して聖霊は私たちがまだ自分自身や自分自身の興味・関心が終わりとなっていないことをかなりよく知っておられるのです。
 聖霊がなさりたいことをされるまでには、私たちのうちでもっと何かがなされ、絶望へと導かれねばならないのです。けれども聖霊はご存知です。それがポイントであります。主はこの人※を知っておられました。主はこの人があらゆる明確な道への見込みをもって始めるためになすべきたくさんのことを持っていないことを知っておられました。そしてその機会が備えられたのです。主は支配するお方として働くことが出来たのです。聖霊はこの必要を満たすためにそうされたのです。)

(今日の文章は Spiritual Sight - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003220.htmlです。 ※は使徒8:26~39に登場するエチオピア人のことを指しています。本文中にある「水」というところもそのエチオピア人の受けた洗礼の水に言及しての内容です。4章の文章はエチオピア人、聖霊、ピリポについて丁寧に述べられており十分読み応えのある内容です。一読をお勧めします。その中で今日の掲載箇所は6つのポイントの一つ、「どのように聖霊の働きはさまたげられるか」のほぼ全文にあたるところです。訳が相変わらずまずく誤訳があると思います。特に真ん中の部分が訳しづらく、自信がありません。是非原文でお確かめください。一ヵ所だけ英文で珠玉中の文章と訳者が思うものを以下に載せておきます。エチオピア人についてまとめた文章です。是非、上掲の聖書箇所と平行してお読みください。益するところ大と信じます。 It comes in the Acts of the Holy Spirit, and when you come to ask the question, Why is this man included in the record and his story handed down from age to age to last as long as time? The answer is just what we have said: he was a man who meant business with God, was open to the Lord, honest in heart, humble in spirit, and obedient to the light that he had.

2011年4月17日日曜日

目が開かれる人

菜種の花にカメラの焦点を合わせて
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて(新約聖書 ルカ24:45)

今日の世界の状態を顧みますとき、私たちは霊的盲目の病弊のひろがりに深い影響を受け、圧迫されているのが現状であります。それが時代の根本的な病気であります。もし世界が患っている悩みのほとんどが、全部ではないとしても、その根っこをたどってみると、すなわち盲目であると言ったとしてもそんなに間違ってはいないでしょう。大衆が盲目であります。そのことは疑いがありません。ある特別な啓示のある日を仮定してみるなら、その日に大衆は盲目状態にあるのです。指導者が盲目です。盲目者に対するに盲目の指導者がいるというわけです。しかし非常に広範囲に見るなら同じことは主の民にとっても妥当であります。全く一般的な言い方をするなら、クリスチャンは今の時代に全くの盲目であります。

すべて新しく見えるようになることはどんなことも天からの働きであります。すべてに対して一度たりとも完全になされるものはありません。私たちにとって可能なのは見続けること、そして見ることはもっと完全に見ることですが、それはあらゆる肉の働きをともなうもので、私たちの力がなしうることでなく、(主によって)なされねばならないことなのです。霊的ないのちは始まりにおける単なる奇跡にとどまりません。最後までまっすぐ継続的になされる奇跡であります。

私たちは新しい啓示を求めていません。私たちは神のことばのほかに何か余分のものを持った方が良いと言ったり、暗示したり、示唆しているのではありません。ただ神のことばには私たちが決して見たことはないものがたくさんあり、それを私たちは見ることが出来るのだと主張しているのです。確かにすべての方はそのことに同意されます。まさしく見ることは、あなたが本当に見れば見るほど、ますますすべてのことに関して圧倒される感じを持つのです。なぜならあなたは短い人生で経験する力を越えて存在する、はるか遠くの土地の境にまでやって来たことを知るからです。

主は私たちすべてを目の開いた者にされる。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003151.htmlです。訳が稚拙であるためわかりづらい文章になってしまいまして申し訳ありません。スパークス氏のこのくだりは抜粋箇所が飛び飛びで理解するには全文通読が必要です。お忙しい方のためにスパークス氏の聖書引用箇所を掲げておきます。民数記22:31、24:3~4、マルコ10:46、51~52、マルコ8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~18、黙示3:18、使徒26:18)

2011年4月1日金曜日

クリスチャンとはどんな人を指すのか

神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 2コリント4:6)

ガラテヤ人への手紙は本当は次のようにまとめられるものです。クリスチャンはあらかじめ定められたあれやこれやの事柄を実行する人ではありません。禁じられているのであれやこれやを行なうことが禁じられている人でもありません。またあなたはこうしなければならない、こうしてはいけないという生活様式や秩序や律法体系に支配されている人では決してありません。そうではなくクリスチャンは次のように言うことばで理解される存在です。

「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:15~16)もうひとつの唯一の言い方は、神は私の目を開いてイエスを見るようにされたであります。二つの言い方は同じです。ダマスコ(※)の道路はその場所です。「主よ、あなたは誰ですか。私はナザレのイエスだ」「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」その二つは一つであり、同じことなのです。

内側にイエス様を見ることそれが人をクリスチャンにさせるのです。「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(2コリント4:6)「私たちの心を」とは、内なるところで、キリストが大層明らかになったことが、私たちをクリスチャンにさせるのだということです。クリスチャンがある事柄を行なったり行なわなかったりするのは、何かクリスチャンの決まり、なおさらユダヤ教以上の何かの決まりに命令されてのことでなく、心のうちにおられるキリストの御霊に従ってのことなのです。それがクリスチャンになるということです。

この基本は残余の全てのことに当てはまり、完成にまで導かれることです。なぜならそのことはまさしく日々成長していく事柄であるからです。したがって基盤は上から来ることに依存しなければならないのです。二つの事柄は全く一致しています。それは見ることです。キリストを見ることなのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2   の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003112.htmlです。※ダマスコとは使徒9:1~19、22:3~10、26:12~18などに描かれているパウロの証に登場する場所です。この「霊的視力」とも訳せる主題のもとに書かれた文章はこれまでも何度か登場しています。1/27「私は見える」3/19「目が見えるようにしてください」がそれです。参考のためにそちらもお読みください。)

2011年3月19日土曜日

目が見えるようにしてください

わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(新約聖書 黙示3:18)

私たちは自分の生活において見えると思い、知っていると思っている全ての事柄を点検しなければなりません。あなたも私も私たちが霊的知識だと思うものをたくさん持っているかもしれません。すべての教義も心得ていますし、真理を体得していますから(と言うかもしれません)。福音的な教義の指針を持つことは出来ます。でもその結果はどうですか。

愛する皆さん。もし私たちが変えられていなければ、それは真に霊的な意味から言えば見えることではないのです。 そうなのです。見えるということは変えられるということです。もしそうでなければそれは見えることではないのです。私たちがそれらすべてのものが剥ぎ取られ、ちょっとした違いを生ずることが本当に見えるところまでとことん連れて行かれるならはるかに良いでしょう。

私たちはこのことに関して神様に対して大変正直であらねばなりません。私たちは、その90パーセントが何の重要性もない山のような全知識よりは、100パーセントである実にわずかなものをもっと早く持ちたくないですか。私たちは主に霊的いのちを越えて前進することから守っていただくように求めねばなりません。前進とは知識を伴うこと、知識につけ込んでくることを私は言っているのです。

あなたは私の言わんとすることがわかるでしょう。本当に見えることは、パウロが言うには、変えられることなのです。そして変えられることは主である御霊によって見るように見ることなのです。だから私たちは見えるように祈りたいです。

遅すぎて霊的視力を得られないということは決してありません。たとえ見えなくても、またどんなにその(見えない)期間が長くても、私たちが主に対して本当に真剣であるならばです。けれども、このことは神様に対して正直であらねばならないことだということを忘れてはいけません。

主イエス様はナタナエルに驚くべきことを言われました。ナタナエルは二重の盲目になりかねない危険性にありました。彼が一般的な偏見を言い表してしまった瞬間、彼は大変危険なところにいたのです。彼は言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」それは一般的な偏見です。偏見が多くの男女から神様のより完全な考えを奪って来たのです。偏見は多くの形態を取ります。用心しましょう。

けれどもナタナエルは救われたのです。主イエス様はおっしゃいました。 「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)「いまに(これから先)」とは主がおっしゃるのはもちろん御霊の日であります。「主である御霊によって」ナタナエルは見えるようになったのでありました。そうです。彼は危険なところにいました。しかし彼は逃れたのです。

もしあなたが偏見によって危険地帯にいるなら、注意してください。そして偏見を捨てて心を開いてください。主に対してヤコブ的(自己中心的)なもののない、ずるさのない、心を開いた一人のイスラエル人(ナタナエル)のようでありなさい。そうすればあなたもきっと見えるようになるでしょう。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003099.htmlです。 ナタナエルの記事は私にとり一見わかりにくいところでした。でも主イエス様が私たちの思いを全て知っておられることに留まる時この箇所は途端に魅力的なものになりました。私たちそれぞれが、教会に行っていようが、行っていなかろうが、そんなことよりも、主が天から私たちの一挙手一投足をすべてご存知だということに気づくなら、私たちの生き方は随分変わるのではないでしょうか。だから震災も原発の問題も主の御手にすべては握られてのことではないのでしょうか。そのお方に祈ることが「目が開く」ということではないでしょうか。なお、今日の箇所は1/27の「私は見える」という題の箇所と近接しているものです。)

2011年1月27日木曜日

私は見える

白椿 一枝手折り 和ませる 妻の心に われら喜ぶ
ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(新約聖書 ヨハネ9:25)

(これまで現代の根本的な病根、人々が霊的盲目状態に置かれていることについて話してきました。今までともに読んで参りました聖書箇所※を取り上げてみても、霊的な盲目さや霊的見方の全ての背後に、極めて一般的な仕方ではありますが、どんなにかそれらの病根がおおっていることかがわかります。それですから、続けてこのようなあらゆる場合における共通した要因について話すことにします。

それは霊的に見えることは必ず一つの奇跡であるということです。誰もが生まれたままでは霊的に見えないからです。霊的に見えるとは神様の直接の働きとして天から来るものです。その能力は生来のものとして備えられているのではなく、新しく創造されねばならないのです。この世界にキリストが天から来られたために義認そのものが事実となったように、人は霊的に盲目状態で生まれ、人の霊の眼が開かれるためには天からの訪れが必要なのです。

それですから結局、霊的に見えないということはキリスト者生活において奇跡的要素をなくしているということです。人が、本当に「私は見える」と言い切るためには大変な時間の必要があることをこれまで見てまいりました。

想像してください。あなたが盲目に生まれついて、その生活を続け、大人になるまでどんなものもまた誰をも見たことがないのに、突然目が開いたとしたら。すべてのものが見え、みんなが見えるんですよ。そこには驚きの思いがあるだけでしょう。世界はこんなに素晴らしいのです。ヨハネ9章に登場するあの盲目であった人は家に帰って言い続けたことでしょう。人が見えるなんて、何と素晴らしいことでしょう。何でも見えるんですよ。素晴らしい!そのことばが彼の唇からもれることばのほとんどでしょう。

そうなんです。しかしこのことは霊的な事柄にもあてはまります。絶えざる飢え渇きは四六時中、心の中にその霊的な驚きを持っている人のものです。聖霊の啓示によって心が目ざめされ、つねに変わることなく発展して行く驚きであります。それは新しい世界、新しい霊の世界です。それが現代の必要としていることです。「私は見える!」


クリスチャン生活のあらゆる段階、最初から終わりまで秘訣はまさしくそれに違いありません。「私は見える」私は今見ているようにはこれまで一度も見たことがない。私はそのように見たことがなかった。私は自らの博学でも見たことはなかった。しかし、今見えます!もしいのちが御霊にあるいのちであるなら、初めから終わりまでそのように言えるにちがいありません。

それですから、しばらくクリスチャン生活の一、二の局面を考えて見ましょう。そのような生活は神様の働きによって見えるというこの偉大な真実に支配されているにちがいありません。このことについて聖句の中でどんなにたくさんのことが書かれているかを知って、私が話している通りたくさんのみことばを思い出されることでしょう。

クリスチャン生活の始まりとは何でしょう。それは見えることです。見えることでなければなりません。これまで述べてきた論理そのものがこのことを要求しています。このゆえに、クリスチャン生活のすべては一つの線に沿って漸進的に進み終わりに達するものです。その線、終わりとはキリストです。それがヨハネ9章の盲目に生まれついた男にまつわる記事の核心でした。

この男が(証をし)追放された後、どのようにしてイエス様に見つけられたかを覚えらておられるでしょう。イエス様は彼に言われました。「あなたは人の子を信じますか」すると男は答えて言いました。「主よ、その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエス様は彼に言われました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」すると彼は言いました。「主よ。私は信じます。」そして彼は主を礼拝しました。霊的に見えるということは主イエス・キリストを深く知るということです。そしてクリスチャン生活の最初から終わりまでの全行程がそうなるように定められているのです。

私たちは救いは自分が罪人であると知ることであると言うかも知れません。しかしそこを離れると私たちには乏しいままです。

そうなんです。すべてのことがらはイエス様を見ることにまとめられます。そしてイエス様を本当に体験するとき何が起こるでしょうか。タルソスのサウルに起こったことは何だったでしょうか。よろしいですか、すべてのことが起こったのです。他の何物ももたらなかったであろう強力なことが起こったのです。あなたがもしその当時いたとしてタルソスのサウルと議論をしてもキリスト教へと導き出すことは決してできなかったでしょう。同じようにあなたが脅しても、また理性で納得させても、感情に訴えてもクリスチャンにすることはできなかったでしょう。

その男をユダヤ教から引き出すためにはこの地上で見いだし得るいかなるものよりも更なるものが必要だったのです。しかし彼はナザレのイエス様を見たのです。そしてそれがそのことをしたのです。彼はユダヤ教から脱出します。解放されます。彼は見たのです(he has seen)。

(今日もいつもの通り以下のサイトの私訳に過ぎないし、誤訳のあることは否めません。ただ今回はサイトの該当箇所だけでなく、その前にあある数十行をも思い切って訳してみました。ご参考にしてください。なお※の聖書箇所は民数記24:3~4、マルコ10:46、51~52、8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~19、黙示3:17、使徒26:17~18です。読者はこの箇所を参照するだけで、霊的に目が開かれることがどんなことか聖書を通して理解し、恵まれるはずです。ご一読をお勧めします。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003025.html