2011年4月17日日曜日

目が開かれる人

菜種の花にカメラの焦点を合わせて
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて(新約聖書 ルカ24:45)

今日の世界の状態を顧みますとき、私たちは霊的盲目の病弊のひろがりに深い影響を受け、圧迫されているのが現状であります。それが時代の根本的な病気であります。もし世界が患っている悩みのほとんどが、全部ではないとしても、その根っこをたどってみると、すなわち盲目であると言ったとしてもそんなに間違ってはいないでしょう。大衆が盲目であります。そのことは疑いがありません。ある特別な啓示のある日を仮定してみるなら、その日に大衆は盲目状態にあるのです。指導者が盲目です。盲目者に対するに盲目の指導者がいるというわけです。しかし非常に広範囲に見るなら同じことは主の民にとっても妥当であります。全く一般的な言い方をするなら、クリスチャンは今の時代に全くの盲目であります。

すべて新しく見えるようになることはどんなことも天からの働きであります。すべてに対して一度たりとも完全になされるものはありません。私たちにとって可能なのは見続けること、そして見ることはもっと完全に見ることですが、それはあらゆる肉の働きをともなうもので、私たちの力がなしうることでなく、(主によって)なされねばならないことなのです。霊的ないのちは始まりにおける単なる奇跡にとどまりません。最後までまっすぐ継続的になされる奇跡であります。

私たちは新しい啓示を求めていません。私たちは神のことばのほかに何か余分のものを持った方が良いと言ったり、暗示したり、示唆しているのではありません。ただ神のことばには私たちが決して見たことはないものがたくさんあり、それを私たちは見ることが出来るのだと主張しているのです。確かにすべての方はそのことに同意されます。まさしく見ることは、あなたが本当に見れば見るほど、ますますすべてのことに関して圧倒される感じを持つのです。なぜならあなたは短い人生で経験する力を越えて存在する、はるか遠くの土地の境にまでやって来たことを知るからです。

主は私たちすべてを目の開いた者にされる。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003151.htmlです。訳が稚拙であるためわかりづらい文章になってしまいまして申し訳ありません。スパークス氏のこのくだりは抜粋箇所が飛び飛びで理解するには全文通読が必要です。お忙しい方のためにスパークス氏の聖書引用箇所を掲げておきます。民数記22:31、24:3~4、マルコ10:46、51~52、マルコ8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~18、黙示3:18、使徒26:18)

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