花の蕾、5月にはどんな花を咲かせるでしょうか? |
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。(新約聖書 ヘブル12:6)
(地位と召命は子である自覚に基礎づけられておらねばなりません。その自覚なき民は神の前に無価値であります。)子たることの目的とは何でしょうか。それは私たちが霊的な責任のある地位につくということであります。主なる神様は決して神の子以外に「表面的、形式的に子である人々」に責任を与えられることは決してありません。そのために主は私たちを訓練されなければなりません。それは私たちが子である自覚を持ち、神様のために責任を取ることが出来るところまで連れて行かれるためであります。主は私たちが霊的に大人になり、完全に成長することを求めておられます。
このことは何かの聖書学校で取得できるものではありません。また、人々を「宣教」へと追いやることでもありません。神様は決して形をとおして働かれるのではありません。そうです。神様は私たちを神様の学校に連れて行かれるのです。その学校に連れて行き、訓練を施されるのです。もし主がそうして下さるなら、祝福があります。ただ神様の学校は単なる学校教育とは大変ちがったものがあります。
主のことばに「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあるとおりです。「主が受け入れる」ということばに目を留めて下さい。このことばにあたるギリシヤ語の正確な意味は、「受け入れる」でなく、「地位を与える」という意味があります。神様は私たちのうちに成長があるようにとつねに求めておられるのです。その状態において主は私たちを信頼することが出来るのです。
神様が私たちを取り扱われる時は、その背後に主が私たちを信頼して下さっているという驚くべき確信があります。主は私たちを信頼できる者としてくださっているのです。私たちは単なるしもべ、機械の部品であることだけを求めるのでなく、父なる神様と一体になった子、またその手に霊的な責任を与えられる子であることを願うのです。このことを真から認識するに至れば、なぜ神様が今なさるとおりに私たちを扱っておられるかを理解し始めるのです。しかし(それだけでなく)神様がその中におられるから私たちはその目的も確かだと知るのです。神様は神の子どもを試練から脱出させて下さるのです。
(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003144.htmlです。文中「表面的、形式的に子である人々」と訳者が独断で訳したところは「official people」がその原語です。要検討の訳だと思います。ご意見をお聞かせください。なおこの文章は3/14「子であることの栄光」に続く文章です。)
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