2011年4月14日木曜日

キリストの中にすべては備えられている

古利根川川縁、見事に咲きそろった桜堤 4/13夕べ
私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(新約聖書 ピリピ4:19)

神様は唯一の父としての責任を引き受けて下さいました。それらの責任を実行し、一人一人と御子のうちにあって、また御子をとおして出会って下さるのです。キリスト者が話すとき、その責任がいかに拡大されたものであるかはピリピ4:19のみことばに見いだされるとおりです。このことはキリストがキリストのうちにおられる神として認識され、知られていることを意味します。そしてそこには私たちがキリストに向かって徹底的に引き離される背景があるのです。しかし覚えて下さい。それは神様の賜物です。主が言われるには、荒野でマナを与えたのはモーセではなく、父なる神様であったということです。それから、それは人の働きの結果ではなく、神様の恵みから発しているということです。

あなたは霊的な成長のために努めるのですか。私たちは霊的に成長し、身の丈に達するまでどのように努力してきたことでしょうか。また霊的ないのちを維持するためにどんな重荷を負ってきたことでしょうか。私たちは霊的な生活のためにほとんど全責任を引き受け、まるですべてが私たちの働きにかかっているかのように、祈りにおいて、またみことばにおいて、そして主にお仕えするために労し努力し精魂をつめてきました。誰もが私たちが祈りやみことばがほとんど乏しいとは思わないでしょう。また私たちが霊的な生活がどんなものであろうと気にする必要はないと言っていたとは思わないでしょう。

しかし、自分自身で責任を引き受けることと神様がその責任を引き受けて下さったのだと知っていることの間にはちがいがあるのです。そして、神様が責任を引き受けて下さるのですから、私たちは神様と協同する者でなければなりません。私たちが正しい者とされるために働こうとすることと、私たちは正しいと認められたから働くこととの間。また完成のために働こうとすることと、完成はキリストのうちに獲得されているから働くこととの間。これらすべての間に違いがあります。そのちがいは単なる技術的なことではなく、実際的なことであり、大きな価値あることなのです。

時々、主が私たちに次のように言われることは必要なことです。「ご覧、あなたは自分で祈りをはるかにたくさん積み重ねている、また聖句も仕事としてはるかにたくさん読んでいる。そして無意識のうちにすべてのことはどんなにたくさん、また熱心に祈るかによると思うようになっている」と。だからあなたは外へ出て行って他の人々に自分の祈りの生活について、自分がいかに戦っているかを語ります。あなたは意識していないが、それはこういうふうに生活することが自分の成長に大事であり、他の人々にとっても重要だということをほのめかしているのです。(しかし)それは原因ではなく、結果であるに違いありません。「すべてのものの原因、奥義、源泉はわたし自身(キリスト自身)にあるのです。時々あなたはがんばることをやめ、わたし(キリスト)のうちに、愛される信頼のうちに休む必要があります。そのことをもっと学びなさい。そうすれば、あなたはもっと祈り、わたしももっと事をなすことができるのです。」と。

( 今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003148.htmlです。時ならぬネット環境の崩れで投稿し得ませんでした。頭には訳文があるのに、パソコンがないと出来ないのですね。ほとんどネットロボット化している自分に気づきました。)

0 件のコメント:

コメントを投稿