2011年4月30日土曜日

私を強くしてくださるお方

クレマチス あなたも不思議な 花です(ね)
私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなこともできるのです。(新約聖書 ピリピ4:13)

とどまるとはどういうことですか。これまでしばしば申し上げてきましたように、キリストにとどまることは自分自身のうちにとどまることとは反対のことです。

自分自身にとどまるということはただ単に自分の力で主のために生きようとしたり、働こうとしたりすることです。主に助けを求めますが、神様に完全に喜ばれる生活がすでに存在し、その信仰はキリストにあって全うされていることを当てはめてて考えないことです。

それに対して、キリストにとどまるということは、すべてのことをなし、すべてのこと満たすに際し、キリストの力でするということです。それは確かな地盤です。それはなされ得るものか、私はできるのかと、疑問も訳を問う必要がありません。さもなければ私はそのことについて確信がありませんが、それは必ずなされます。

主イエス様はあなたや私が遭遇するすべてのことを満たし、あらゆることにおいて必要なことをなされたのです。それは信仰によって手に入れるものです。信仰は言います。私にはことは馬鹿げており、実行することも非常識で、そのことを考えることも愚かです。しかしそれは成るのです。私はこの求め、あの求めを満たすことが出来ます。これをやり抜き、あれをやり抜くことが出来ます。「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことも(「どんなことも」とは大きい言葉です)できるのです。」キリストが私たちの強さや、成長の隠れた源泉として存在するのです。


これは一つの学校です。だから私たちは少しづつこの課題を学ぶのです。主は学ばれたのです。だから私たちは私たちのケースが記録されているものとは異なっていても、学ぶのです。私たちは主が実現された満たしから引き出すことを学んでおり、ゴールに向かって自ら前進する時には満たしからはずれるのです。私たちは主が満たしに向かって動かれた満たしにどのようにして戻るかを学んでいます。

イエス様にとって十字架は終わりでしたが、私たちにとっては始まりです。私たちはどのようにして主の満たしに戻るかを学ばねばなりません。小さな子どもが、一から歩くこと話すことを学ぶように、一歩づつ漸進的に学ぶのです。子どもたちのように、私たちはなし得なかったことや以前試みたことにも直面します。それらはすべて新しく不思議なことであり、新しい世界、時には非常に恐ろしい世界であります。小さな子どもにとって最初の一歩を踏み出すことを考えることだけでももっとも恐ろしい課題であります。

あなたと私は信仰の領域に導かれています。そこでの始まりのもっとも単純なこと、最初の一歩を踏み出すことは時々私たちにとっても恐怖で困難なものです。けれども腕が差し伸ばされています。その方の腕は今も私たちが求めるものを実現するために私たちに代わってくださり、事はなされています。強さはそこにあり、証明済みの強さを手にできるのです。この方の腕を知り、信頼し、歩み出すことにより、私たちはキリストによって歩くこと生きることを学ぶのです。すると次にはもっと遠くまで行くことが出来るのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003170.htmlです。このところラフな訳になっています。とんでもない誤訳があると思います。ご寛恕を!)

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