赤は「すおう」の花です。残念ながら、正面の木は水をやらなかったため、枯れています。 |
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(新約聖書 ヨハネ6:63)
神の目的をよく理解し、それに専心することは大事なことですが、どのようにして神様が目的を実現なさるのかを知ることは余分なことであります。神様が用いられる方法を知ることはつねに別のことであります。
たくさんの人は神様の目的が何であるかを本当に理解しています。しかしその人たちが用いる方法は神様の方法ではなく、働き始める道は神の道でないために、主は自分たちを支えないことに気づいています。彼らは正しい方向に向かっているでしょう。しかし神の方法や手段との結びつきから逸脱して、無理矢理に自らその働きの責任を引き受け、力の源泉を探します。その結果疲れ果て、立ち往生し、神様の働きを実現するためのあらゆる方法や手段に頼らねばならないことに気づくのです。
なぜなら彼らは神様ご自身の支えを本当に享受していないからです。神様の働きは彼らの肩に重荷となっており、そうであると主は(その働きの)命令は出来ないのです。なぜなら彼らと主の方法、主の手段、主の時、主の目的の詳細との間に最も完全なつながりや共感がないからであります。
ところで主イエスの場合は全く正反対であります。細かい点にいたるまで主は父と密かな交わりを持っておられました。主にあっては、このことは一つの包括的な目的に達するための細かな従順となって表れていました。いくつかの与えられた事項にあって主によって必要とされた唯一の必要とはただ単に父なる神様が考えられたことを知ることにありました。それ以上の言葉を必要とせず主は行動されたのです。それが主の(父なる神様との)関係の根底にありました。
私たちは、主にあっては、なぜひとつのことがある方法でなされ、その時であり、別の時でなかったことや、なぜ用いられる方法があるものであって別のものであるべきでなかったのかを尋ねるために待たれたしるしを決して追跡できないのであります。父なる神様がそう意欲されただけで十分だったのです。説明はあとから正しいものであったという主張となってやって来たのです。神の意志を行なうことは、決して自分から動くことではなく、つねに父に従うその従順さのことでありました。それが主の場合に有効であったので、霊的な食べ物、強さ、エネルギーは十分供給されたのです。
(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003150.htmlです。 4/16当時はネット環境故障のため投稿できず、4/20の時点で後追い訳出することになりました。写真は4/20のものです)
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