ムクドリの 語らうは実の あるやなし |
私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり(新約聖書 2コリント1:8)
主イエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」とおっしゃいましたが、それはあらかじめ自分についてただひとりで絞り器でつぶされることを預言なさっていたものです。十字架が主にとっての絞り器でありました。十字架上で主はどんなにつぶされなさったことでしょうか。主は粉々に砕かれたのです。けれどもその砕きからあなたにもわたしにもいのちが与えられたのです。そのいのちは全世界の民のかなりの数の人々がいただいてきたものであります。それは、ある程度、主のからだである教会において真実であります。
いのちがこの世に入って来たのは、教会の破壊、砕きから派生したのです。そしてそれはすべての成員、すなわちぶどうの木の枝すべてにとって真実であります。もし私たちがこの真実で、生き生きとした宣教を満たしたいなら、悩みを通して、圧搾器を通して、粉々に砕かれることを通して初めて可能なのであります。パウロは申しました。「私たちは耐えられないほどの圧迫を受けた」(2コリント1:8)、しかし、いのちは人が押しつぶされることによって与えられたのだ、と。私たちが今話しているのは説教や聖書の教えではありません。主のいのちが私たちを通して与えられる主の偉大な宣教について話しているのです。それは、他の人々に説教や教えや生き方を通して伝えられるかもしれませんが、もし宣教がイエス様のいのちであるなら、苦しみの経験のうちからしか出て来ないものであります。決して苦しんだことのない説教者や教師はいのちを伝えられないのです。
いかがでしょうか。このことはそれほど楽しいようには思えません。しかしこれが本当のことなのです。もっともすぐれたお医者さん、看護婦さんは自分で何らかの痛みがわかっている人であります。何人かの方々はまさしくあなたをケースとして取り扱うことの出来る専門家でしょう。でもあなたはケースに過ぎないのです。そうでなくあなたを人間として、あなたを癒すことの出来る人がいるのです。
もしあなたがその理由を探し求めるなら、あなたはそれらの人々が自ら苦しんだ経験を持っている方だとわかるでしょう。彼らはあなたが苦しみにあっていることをほんの少ししか知れませんが理解できるのです。私たちはこれまでずっとヘブル人への手紙を読んで参りました。そこにはこう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。・・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。・・・主は試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル4:15、2:18)主イエス様がぶどう絞り器そのものの道を取られたお方です。だから私たちは恵みを受けたのです。
(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003141.htmlはです。この文章は3/26「いのちを伝える使命とよろこび」のあとに位置する文章です。ムクドリは写真に見える以上にもっとたくさんいました。彼らはただひたすら餌を求め、また四方を警戒しながら歩み、飛び立ちます。そんなムクドリの可愛い姿の一瞬です。)
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