古利根川、今日の桜模様 |
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです(新約聖書 ピリピ3:10)
十字架はよみがえりの「いのち」の目的であって、単なる始めではありません。もしあなたがたがたとえ他のどんなことを忘れるとしても、そのことは覚えていてください。十字架は始めであることはもちろんですが、よみがえりの「いのち」の目的なのであります。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり」とあるとおりです。
人々から私はピリピ人への手紙の3章を示され、次のように尋ねられたことがあります。「なぜパウロは死を目的にしたのですか」確かに別の言い換えが正しいように見えます。「私はキリストの死と同じ状態になり、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って」と言い換えることです。けれどもそうではないのです。文章に間違いはありません。
その順序は聖霊から来ています。復活の力は死があったことを前提にしていますが、まさしく復活の「いのち」が十字架へと導いているのです。よみがえりの「いのち」の力の中にある聖霊はつねにあなたがたをキリストの死と同じ様になるようにと十字架へ引き戻し導いておられるのです。死に属するすべてのものを無視することが「いのち」のまさしく特性であります。復活の「いのち」の力そのものは、死が打ち滅ぼされるところへ私たちを連れもどすことにあります。そことは私たちの主イエス・キリストの十字架以上にふさわしい場所はありません。そこにおいて生まれながらの命は捨てられているのです。
だからパウロは言います。「・・・キリストの死と同じ状態になり・・・」その言わんとするところは絶えず死の側に立ち、徐々に弱くされることです。そのことは私たちがこれまで言ってきたように、主とつながりをもって生きることの結果であります。あなたがたにとっても私にとっても、外見上みすぼらしくなることでありましょう。それは、もし私たちが復活の力から完全に離れ、もうすでに主の「いのち」を知っていることから離れて、主の死と同じ様になったとしたらそうなるのです。
その時、私たちの望みはどこにあるのでしょうか。私たちの生き残りの力であるものは、私たちが十字架がより真に迫って来、それが体験となるときどうなるのでしょうか。もし主のよみがえりの「いのち」が私たちのうちになかったら生き残ることはないでしょう。だからパウロは祈っているのです。「私が、キリストとその復活の力を知るように」と、そしてそのことは完全に壊され得ない主の死と一つになることを意味しているのです。よみがえられた「いのち」の目的は十字架であります。聖霊はつねに十字架との関わりで働いてくださいます。それは復活の力が私たちのうちに益々はっきり現されるためなのであります。
( 今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003115.htmlです。今日は気温は低いですが、外は青空です。古利根川の桜を初めて見てきました。昨日一昨日と大阪の桜ノ宮に出かけましたが、桜はこちらより開花が早く一斉に咲き誇っていましたが、生憎うそ寒くカメラを向ける気になりませんでした。そのお陰で地元の桜をカメラに収めることが出来ました。例年になく寒く感じる春は今の私たち日本人の切ない思いを代弁しているようです。復興、復活はいのちの主により頼まなければ不可能です。十字架の主のお苦しみを少しでも知りたいと思いました。)
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