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2011年9月25日日曜日

天が開けて

悲しいかな、余りにも地上的な人の存在。天を仰げ!(京都祇園にて)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(新約聖書 ヨハネ1:51)

(これらの章(訳注:ヨハネ8:12~9:41を指す)が8章と9章とに二分されているのは残念です。なぜなら9章でイエス様はイエス様が8章で言って来られ たことの真理を、きわめて実際的な方法でお示しになっているからです。このできごとが地上的なイスラエルの背景のうちにおかれていることは極めて明白であります。そしてこの長い記録の部分は肉にあるイスラエル人が盲目であることを示すために意図されているのです。もし人々がイスラエル人がいかに盲目であるかを示そうものなら、これらの人々と口論になることでしょう。イエス様がイスラエル人自身の正体を明らかになさっておられるのです。それがイエス様が彼ら自身が盲目であることを示そうとやむにやまれずなさっている当のことがらです。
 事実はこれらの人々は全く見えていなかったということです。彼ら(訳注:8章 の)は、その男(訳注:9章の)が生まれながらの盲人であったのと同様に霊的に盲目であったのです。それがために私たちがここで知ることはイスラエル人の盲目が話題とされているということです。そしてそれはすべて主イエス様が持ち込まれた新しい霊的イスラエルの特別な性格を示す目的があるのです。
 しばらくその話題から離れますが、みなさんはそのことは覚えておいてください。なぜなら私たちが今問題にしているあらゆるこれらのことを包含する一つの大きな真理があるからです。それは)

 神様がかつて表明されたいかなる考えも滅びることはないということです。神様があらわされたどんなお考えにも間違いはないのです。神様は古のイスラエル民族の概念や構成においてまさしくご自身の考えを表現されたのです。そのお考えはイスラエルについて言われたことの全てのうちに、またイスラエルにおいて神様のご計画に関してあらわにされたことの全てのうちにありました。神様はイスラエルに関するご自身の考えをありとあらゆる方法で表現されました。そのイスラエルが神様のお考えに答えることに失敗したのです。イスラエルに関するお考えは彼らの反抗心のゆえに決して十分には認識されなかったのです。そのためイスラエルは(神様から)やり過ごされましたが、神様のお考えは捨てられなかったのです。これらのすべての同じ考えは今や新しいイスラエルのうちに受け入れられているのです。

イエス様ご自身がすべてをふくむ新しいイスラエルとなられているのです。皆さんは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様が名前がイスラエルと変えられたヤコブに言及され、ナタナエルに向かって言われたのです。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」そのようにイエス様は人として新しいイスラエルなのです。神様と天が人と交わりをもつすべてはイエス様の道、新しいイスラエルによるのです。過去の時代の神様のお考えは最初の段階で主イエス様に受け入れられているのです。かつて神様によってイスラエルに関して意図されましたが、イスラエルによってなくされたすべてのことは主イエス様のうちに移され、それからイエス様によって、イエス様の友や天からの召しを受けている霊的な新しいイスラエルに移されるのです。

これがあなたがたのために非常に大きな領域を開いていることがらです。

(神様のイスラエルに関するみこころのすべての特徴を数え上げることは恐らく不可能でしょうが、私たちが言わんとすることをちょっとお示ししましょう。ご存知のように神様はイスラエル人を外見において他の全ての人々とはっきり異なるものとして区別されたのです。

※イエス様の友とはイエス様が見るように見る人のことを指します。あらゆる交わりの中でそれはどれほど真実であることでしょうか。もし二人の人が似ているように見えないなら彼らの間の交わりは本当は全然存在しな いのであります。あなたは一緒にいたいかもしれません。けれども人があなたが見るものを見ない時、一緒にいることはどれほど困難なことでしょう。You can go so far and no further. 聖書は言うのです。「ふたりの者は、仲がよくないのにいっしょに歩くだろうか」(アモス3:3)本当の交わりは相互理解の上に安らぐのです。そして私が思いますのに、イエス様がご自分を理解する人を持つこと以上に切に懇願しておられることは何もないのです。これが神様がいつも求めておられたことです。そしてこの考えが御子に受け入れられ、御子の友達に伝えられるものです。ヨハネは言います。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち」(1ヨハネ1:7)主との交わり、相互の交わり、それはもし私たちが光の中を歩んでいるなら(可能なのです)。言わせてもらえば、 みなさんは、何はともあれ、ことばにおいてたくさんの光を受けてきたのです。私の言うことができることはこれだけです。光の中を歩みなさい。そうすれば自由になります。)

(今日の箇所は The On-High Calling, Volume 2 - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003388.htmlです。今日の箇所は全文引用してこそはじめて理解できるところですが、長くなるので全文を引用する代わりに文頭と文末を追加採用しました。※のところは文末の文章です。きわめて含蓄のある文章だと思います。)


2011年8月13日土曜日

夏休み番外編⑤すべてのいけにえと捧げ物が完成した

読む箇所:ヨハネ7:1,2,14,37〜39

この箇所は仮庵の祭りの行われているところで、民数記29章にまで戻ります。もし、その箇所をご覧になればこの祭りの大いなる日に至るまで何が動因となっているか、わかるでしょう。あらゆる様々な捧げ物が主の前に差し出されました。(捧げ物は全部その章で言及されているので、それらを一々列挙する必要はないでしょう)それから祭りの最後の大いなる日がやって来たのです。

その日は「仮庵の祭り」と呼ばれますが、「ラッパの祭り」とも呼ばれます。その最後の大いなる日に祭司たちは、水の入った大きな器を運び出し、そこからエルサレムの宮の段の最上部にその水を注ぎ出すのです。そのため、大変な水かさとなって流れ下りました。イエス様はその時前に進みでられたのです。イエス様にあってあらゆる捧げ物が神様の前にあらわされています。

人としてのイエス様はあらゆる捧げ物といけにえのあらわれであり、あらゆる神様の要求を完成するものとしてご自身を主に差し出されるのです。それからこの仮庵の祭りの日に来られます。民数記には「ラッパが吹き鳴らされる日」(訳注:民数記29:1)と言っています。イエス様は言うならばラッパを手に取られて「大声で言われた」(ヨハネ7:37)のです。ここに型としての仮庵の祭りのラッパがあります。イエス様にあってあらゆる捧げ物が完成されるのです。神様は完全に満足され、その結果、御霊を充分に注ぎ出すことができるのです。イエス様はラッパのように「わたしを信じる者は(略)その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と叫ばれました。

これが新しいイスラエル人であるすべての人々の相続財産です。あなたの相続財産でもあります。もし、神様のみことばが真実であるなら、また、キリストの言われたことが真実であるなら(そしてキリストは大声で叫んでそのことが真実であることを知らさせようとなさったのですが)、そしてあなたと私がイエス・キリストを自分たちのための神様の完全な満たしである、つまり神様がご自身に約束しておられたあらゆるささげものをもたらし、あらゆるいけにえと捧げ物を満たすお方だと受け入れるなら、その時キリストの叫びは私たちにとっても真実なのです。

生ける水の川は私たちから流れ出て、他の人々は私たちをとおしてキリストのいのちを受け入れることができるのです。私たちはキリストの水路であります。そのことはすべての本当の信者とともにどのようにあるべきかが示されていますが、イエス様は私たちのために完全に神様を満足させてそのことを可能にしてくださったのです。

だから、新しいイスラエルの人々は自分たちから川が流れ出る人々でなければなりません。あなたの信仰を信じ、確信を持ちなさい。黙っていてはいけません。ラッパを取り出し、人々に聞かせてください。そうすればあなたが主イエス様を証し始めるとき、他の方々がいのちを受け入れることに驚かされることでしょう。何かが彼らに起こります。もし、あなたが口を閉ざしたままで、家でも、近所でも、職場でも主イエス様を証することを拒んでいるなら、御霊の川の流れをさえぎることになります。あなたはあなたから流れ出てくるはずの川の流れをさえぎっているのです。

さあ、もし、今まであなたがそうなさったことがなかったら、試みてください。私はあなたに伝えたいのです。あなたの証をとおして主イエス様のところに来られる方はあなたにあって解放されることでしょう。その結果あなたはもう二度と口を閉ざしたままでいたいとは思われないでしょう。

口を閉ざしたままでいる大勢のみじめなクリスチャンがいます。話し過ぎるのですが、主イエス様を十分話さない人がかなりいます。そのために自身のクリスチャン生活を台無しにしています。主イエス様のラッパを取り、大声で言いましょう。そうすれば、御霊の川が流れ始めるでしょう。

新しいイスラエル人である私たちは、私たちのために神様にとっては、また私たちにとっては神様からと、いずれにとってもイエス様が全く十分であると宣言し、仮庵の祭りを守り続ける必要があります。

(40年以上前、私は度重なる大学受験失敗のため、劣等感の虜になっていました。今もその性質は根強く残っています。しかし、私は今日の聖書の箇所、ヨハネ7:37〜39を信じて、根本的にそこから解放されました。人にはそれぞれ賜物が創造主から与えられており、それだけでなく、神の愛はイエスを信じる者の内側から溢れ出る愛となって流れ出ることを瞬時に悟らされたのです。もちろんそのときはオースティン・スパークス氏がここで明らかにしようとしている委細は知りようもありませんでしたし、知ってもいませんでした。聖書信仰は全聖書を知って信じるものでないと私は考えます。私のように無知であり、ほんの一部の聖書しか知らない者であっても、みことばを信じる者に確かな生き方を与えてくれるのです。そしていったん信じた者に聖書はさらに深く深くその真理を伝授してくれるのです。)

2011年8月12日金曜日

夏休み番外編④天から与えられる食べ物の奇跡と奥義

(オースティン・スパークス氏はヨハネの福音書にユダヤ教の背景があるものとして16のポイントをあげています。今日ご紹介するのはその中の10ポイント目に該当するものです。)

読む箇所:ヨハネの福音書6章

このことについてはすでに何度かお話したことがあります。ユダヤ教の背景は32節にあります。「天からのパンを与えたのはモーセではありません。わたしの父です。」ユダヤ人のいる前でイエス様はおっしゃっているのです。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えます。(略)わたしがいのちのパンです。」と。

ヨハネが荒野のマナについて広範囲にわたる文章71節を網羅して明らかにしているのは一つの論点であります。それは人間的に不可能な状態において神の食べものがいかに与えられるのかという論点です。このことは自然の領域を出て明らかに超自然の領域へと連れて行かれることです。

ニコデモ、彼はイスラエル人のまさしく典型ですが、キリストによって強力な〈どのように〉と疑問を起こされた要求に直面しました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。」その疑問はクリスチャン生活の始まりの奇跡を自明なこととして仮定していたのです。

「いのちのパン」であるキリストご自身が、いたるところ霊的な荒廃があるとき、神の民のいのちを養われるということは、第一に奇跡であり、第二に事実であり、第三にキリストとの生き生きとしたつながりを試みるものです。この奇跡と事実は霊的な支えに何の地上的な手段を持たなかったかなり多くの人の活力と忍耐の長い歴史が証明しているものです。私たちの生活がキリスト自身に収斂されており、単なる宗教に支配されていないなら、私たちが歩み続ける方法は奇跡となることでしょう。

おそらく、これが神の多方面にわたる知恵が教会によって支配と権力にまさって知らされ、私たちが〈キリストの恵みの栄光〉にある道の一つとなることでしょう。

2011年8月11日木曜日

夏休み番外編③いのちのみことばと死の律法

読む箇所:ヨハネ4:46〜54
ここには王室の役人と死にかかっている息子のできごとが書かれています。彼はイエスを探し、説得して自分と一緒に家に行ってもらい、息子を直してもらおうとカペナウムからはるばるやって来ました。イエスは彼の信仰をためされたが、その信仰が全く本物であることを知って「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と言われた。その人はイエスを信じて帰途につき、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われたちょうどその時刻に子どもが良くなり始めたことを知りました。

このできごとの核心は何ですか。なぜイエスはカペナウムまでその人と一緒に行かれなかったのですか。イエスは別の機会にはそこへ行ってたくさんの人を直されました。なぜイエスは言われなかったのですか。「わたしはいつかカペナウムに戻り、そこで多く働く必要があります。今行ったほうが良いのです。ここには機会があります。招かれています。わたしはすべての招きを受けなければならないと思います。」

ところが、イエスはそう言われませんでした。イエスはおられたところに留まり、その人を随分遠くの家に送られました。その人が家にたどり着くには昼の正午からその日の日没までかかり、それから翌日にさしかかっていました。なぜイエスはこの特別な機会にこの方法を適用なさったのですか。

ユダヤ教の背景があります。それは何ですか。それは「文字は殺す」(2コリント3:6)という律法の背景があります。イエスは言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)もし、キリストが話されるなら、キリストのことばは霊でありいのちです、という場合はどれだけ遠く離れていようとも問題ではありません。

律法について話す旧約聖書は死をもたらしました。「文字は殺す」(それは律法の文字です。)「御霊は生かす」(2コリント3:6)そして、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」イエスは話さえすればよく、律法の結果(訳註:死)を逆転されました。律法はこのことを決してなし得ませんでした。あなたはこの子どものところにエルサレムからすべての律法学者とパリサイ人を連れて来れるかも知れません。すると彼らはモーセの律法を全部暗唱できますが、何も起こりません。

イエスは彼らが律法を朗読するために確かに、そしてすぐに死なれるだけでしょう。(He will die right enough, and probably all the quicker because of their reading of the law!)イエスは口を開き、ことばを話さえすれば、数マイル離れた子どもはその瞬間良くなり始めたのです。そうです。イエスはご自身の口の法(のり)がいのちだと言っておられます。みことばのうちにある死からいのちへのこの移行は極めて明確であります。

(英文併記の箇所はどうしても適切に訳せません。ふさわしい訳をお教えくださるとありがたいです。)

2011年8月10日水曜日

夏休み番外編②わき出る泉への開かれた道

(ここには、もう一つの章節の不幸な分断があります。霊的な目的からすると、ヨハネの福音書が3章、4章と分離されているのは、大変残念なことです。)
読者はヨハネの福音書4:1〜42をお読みください。

主とサマリヤの女との間で交わされたすべての話の核心は14節です。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」私は今しがたここの章節の分離はあるべきでないと言ったばかりですが、それは民数記21章が分離されていないからです。上げられた青銅の蛇の出来事のあとすぐにわき水である井戸の出来事が書かれているからです。「そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。〈わきいでよ。井戸。〉」(民数記21:17)

十字架がその働きを成し終えたとき、つまり、キリストが私たちの上にとどまるさばきと呪いを耐えしのばれたとき、聖霊は解き放たれ、永遠のいのちの泉としてわき出るのです。そういうわけで4章には民数記21章の背景、上げられた青銅の蛇にすぐ続いているわき出る井戸があるのです。3章と4章には以下二つのことがらがあるのです。

私たちのために呪われたものとなられ(と言いますのは、申命記21:23に「木につるされた者は、神にのろわれた者」と書かれているからです)、私たちの反抗心のさばきを甘受し、十字架に上げられたイエス様。それから、キリストがそれを成し遂げられて、永遠のいのちのわき出る泉の道となられたことです。

聖霊は聖書に素晴らしいつながりを与えておられます。そうじゃないですか。聖霊はどんなにものごとを一体化することでしょうか。私たちは恐らくヨハネの福音書3章と4章を民数記21章の中に見出すことは考えもしなかったでしょう。しかし、確かにそうなのです。

2011年8月9日火曜日

夏休み番外編 ① 蛇、呪い:上げられたイエス

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14〜15)

ここには旧約聖書の背景があります。それは民数記の21章です。こんなふうに出来事は始まっています。「民は神とモーセに逆らって言った。(略)私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)民はマナ、すなわち天から与えられた食べ物に激しい言葉を用いました。彼らは神とモーセに逆らって言ったのです。「私たちは神が備えたものを憎む」と。

是非覚えていただきたいのですが、神がみわざをなさる時はいつも御子を念頭に置かれておられたということです。この場合がまさしくそうです。神はイスラエルの子たちに天からのマナを与えられたのです。(ヨハネ6章で明らかにされるとおりです。)マナはキリストの型でした。キリストは言われました。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。(略)わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:33,35)イスラエルの民は言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」しかも皆さんはユダヤ人がキリストが来られた時に「私たちはこの男を憎む!」と言う案配に話したのを聞くことができます。それがイスラエル人の心でした。

神は荒野のこれらの民の心を見ておられました。彼らの心は神に対して、また神が与えてくださったものに対して、どんなに反抗的であったことでしょう。そのために、「主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:6)「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」ああ、ここには深刻で恐ろしいことがあるのです。聖書の初めから終わりにいたるまで、蛇は常に呪いと神のさばきの象徴であります。御存知のとおり聖書の蛇に関するまさしく最初の言及がそうであります。この荒野に上げられた蛇は神のさばきの象徴でありました。反抗的な民にとどまった神のさばきと呪いはその蛇へと移されたのです。今や人々に対する神の呪いとさばきを乗せる旗ざおに移され、その青銅の蛇を仰ぎ見る者は誰でも救われたのです。

旧約聖書のその一片を用いて主イエスは次のように言われたのも同然でした。「わたしはあなたがたのために呪いとされます。わたしが上げられる時、あなたがたのさばきをわたし自身の上に甘受します。わたしはあなたがたの罪を木の上のわたしの体に移します」十字架につけられたキリストのうちに呪いとさばきからの解放があり、仰ぎ見る者は誰でも生きるのです。こうして私たちが知っている最大の聖句に近づくのです。

「というのは」(私は接続詞が好きです。接続詞は新約聖書でつねに重要です。〈というのは〉、〈それゆえに〉とかある場合はつねに熟考すべきです。)「神は実に世を愛された」私たちはしばしば文脈を無視してヨハネ3:16を引用します。ああ、これは何と恐ろしいことでしょうか。

神はご自身のひとり子の上に私たちすべての罪・咎を置き、御子が、ご自身の愛された御子が、私たちのために呪われたものとされることを許されたのです。なぜでしょうか。「というのは、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(訳注:日本語の聖書では〈というのは〉という接続詞は訳されていない)」この聖句を取り上げ、民数記21章の中に正しく置くか、民数記21章を取り出しヨハネ3:16の中に正しく配置する必要があります。

ここに旧約聖書から新約聖書への移行の背景と前景があるのです。新しい天的なイスラエルは「信じる者は誰でも永遠のいのちを持つ」という基盤の上に築かれるのです。私たちはこのことについてもっともっと言いたいです。しかし、先を急がねばなりません。

(パソコンを使えない状況にありますので、当分このような形で投稿させていただきます。今まで通りスパークス氏の英文の私訳です。)

2011年6月5日日曜日

主の宮はどこに存在するか

蛍袋の隣にアマリリスが咲きました。花弁が崩れているのが残念です。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(新約聖書 マタイ18:20)

私たちは、神様が世界歴史の現段階で特別関心を持っておられることがどんなことであるか、そしてそれゆえに主の子どもである私たちが召されていることとはどんなことかが完全に明確になっていなければなりません。神様が今の時代のご計画においてなされることは霊的でありかつ天的であるイスラエルを形成されるということです。その形成において神様は古のイスラエルの様々な律法を霊的な方法で反復されているのです。

神様は古のイスラエルに対するご自身の方法を進められますが、今では天的ではあるが地(上)的な基盤でなされるのではありません。なぜなら神様の方法は変化するかもしれないのに対して、その原則は変わることがないからです。神様は旧約聖書の地(上)的な基盤から離れ、新約聖書の天的な基盤へと移られたのです。一時的なものから霊的なものへの移動でありました。そして霊的であることは一時的であることにくらべてはるかに偉大なことなのであります。

そして、そのことは私たちが新約聖書で経験するすばらしい啓示とすべての主を信ずる者が一つの神の宮とされていることへと導くものであります。キリストが私たちの宮であり、キリストにあって私たちは宮を通してかつて意図されていたことのすべてを知るのです。ああ、どれほど多くの人々がこのことから遠く道を外れて歩んで来たことでしょうか。

私たちは「教会」と称せられる多くの場所に参りますが、そのことばは建物のことを言っているのです。人々がそれらの場所で祈る時、人々は通常このように言うものです。「私たちは今日あなた様の家にやって参りました。私たちは今この神様の家におります」これはまさしく建物について語っているのです。しかし私たちは神様に宮を与える建物を必要としません。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20)イエス・キリストによって集められた人々が神の宮を構成するのです。宮は特別な建物ではなく、キリスト・イエスにある人々であります。これが神様が今日のご計画のうちになされることであります。

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003212.htmlです。本文は平易に旧約のことが新約聖書でどのように実現されたか、ヨハネの福音書の順序に従って①すべての基礎である神の小羊(ヨハネ1:29,36)②閉じられた天と開かれた天(ヨハネ1:43~51)破られた契約とその回復(ヨハネ2:1~11)④神の宮一時的なことと霊的なこと(ヨハネ2:13~22)⑤アブラハムの本当の子孫(ヨハネ3:1~14)と簡潔に述べられています。この文章はその内最初の二つのパラグラフが全体の序文にあたるもので、後半の二つのパラグラフは④の文章中にあるものです。全文読まれた方がもちろんベストです。)

2011年4月24日日曜日

自縛(自己の縄目)からの解放

10日ぶりに花みずきの木に出会いました。すでにこんなにきれいな花が咲いていました。
金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(新約聖書 使徒3:6)

引用聖句 ヨハネ5:1~9この足なえの人の話にある事柄の核心はヨハネ5:5にあります。「そこに、38年もの間、病気にか かっている人がいた」この背景にあるユダヤ教とは何でしょうか。それはイスラエルの荒野における旅が38年間の放浪であったこととつながりがあることはほぼ間違いが ありません。イスラエル人はどんなに不具の状態にあったことでしょうか。彼らがエジプトからカナンへ旅するのには11日間で良かったのに、38年間もかかり、その間本当に一歩たりとも進めなかったのです。彼らは自らの自己本位の生活に縛られていたのです。彼らは無能力で絶望的な不具の状態にありました。なぜなら自己本位の生活に支配されていたからです。皆さんにはその自己本位の生活がどのように荒野の生活で支配的であったかをお話する必要はないでしょう。彼らはどのように神に仕え、どれだけ神に喜んでもらえるかという光を通して少しも見ることをせず、どのように自分自身が愉快になれるかという光のもとですべてのことを見ていたのです。あらゆる彼らの不平や反抗は自らが欲したものが何も得られなかったことから来ていました。それは神様が望まれたものではありませんでした。彼らは全くの自己中心的な人々であり、自己本位の生活が彼らの寝床であり、その寝床に不具なからだを横たえていたのです。彼らは起き上がって神の目的に向かって真っ直ぐ行進することは決してありませんでした。いいでしょうか。それがユダヤ教の背景であります。そしてイエスはこの病気の人を立ち上がらせる時、ユダヤ人のいる前で、イエス様による正しい実例として取り上げておられるのです。

新しく天のイスラエルとなった人々は、自己本位の生活から神様を中心とする生活へと解放された人々により構成されています。彼らは霊的な歩みをイエス・キリストによって行ない、今や主の歩みのとおりに、強くせられて、歩くことができるのです。

皆さんは、ペンテコステの日の後の最初の奇跡が、エルサレムの宮の門にいた(イエス様が地上におられて歩かされた人とはまた別の)一人の足なえの人の立ち上がりにあったことにあるのは、大変意義あることだったとは思いませんか。これらのことは興味ある本を作るために一緒にまとめられるにすぎない、結構な物語にとどまりません。神様はご自身がなさることをお知りであります。そして神様がクリスチャンが誕生した時の最初に行なわれた記念すべき奇跡とは、動けず足なえの状態にあった人を立ち上がらせなさったことにあります。その時、主は言明されました。すなわち、この新しいイスラエルはこの(歩けないという)無能力から解放され、自分の足で霊的に歩く者とされたのだ、と。

何と周囲には証を失ったクリスチャンがたくさんいることでしょうか。彼らは自分の足で歩くことが出来ないのです。それだけでなく他の人々もそのような状態に放置されているのです。皆さんはその人たちを救い出そうと試みておられます。ところで彼らは一足、二足歩むかも知れませんが、再び転んでしまうのです。多くの方々がそのようであり、皆さんは彼らが自分の足で立ち上がれるように人生を費やすことが出来ます。

彼らから出ている、いのちそのものを心配する事柄とは何ですか。また、全く望みを失い、足なえの状態になっているので、歩けなくさせているものとは一体何ですか。それは自己本位ということであります。そのことについて誤解しないでください。それはある形を取る自己であります。注目されたいとする自己であり、自らを誇ろうとする形を取っている自己であります。

この貧しい気の毒な人は自らの絶望状態を知っていたので解放され、イエス様がおっしゃったことを信じたのです。彼はイエス・キリストを信じました。そのことは彼が自らを捨て、信じたことを意味しています。そうなんです。それが秘訣です。私たちはみじめな自分から転換し、もはや自分というものに支配されなくなり、きっぱり言うようになります。「私はみじめな自分と関係がなくなりました。私は自分自身をイエス・キリストに預けます。私は自分を埋葬するという偉大な第一歩を歩みます。」イエス様はそのような人を決して気落ちさせられません。

(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003162.htmlです。このシリーズは以前にも1/30「信仰の創始者・完成者であるイエス」3/26「いのちを伝える使命とよろこび」でお目にかけています。要点をつかまえた文章が続いた記憶があります。なお今日の章は比較的読みやすい英文が続き、興味ある記事が続きます。是非一読なさると聖書の真髄がこんなところにあるのかという思いにさせられ、もっと聖書を注意深く読んでみたい思いに駆られるはずです。ただし今日の訳文そのものはかなり意訳につとめており、果たしてこれでいいのかと思っていますので、眉につばをつけてお読みくださるとありがたいです。)

2011年4月10日日曜日

ああ、主よ、あなたこそ、芳醇のいのちを与える「絞り器」です!

ムクドリの 語らうは実の あるやなし
私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり(新約聖書 2コリント1:8)

主イエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」とおっしゃいましたが、それはあらかじめ自分についてただひとりで絞り器でつぶされることを預言なさっていたものです。十字架が主にとっての絞り器でありました。十字架上で主はどんなにつぶされなさったことでしょうか。主は粉々に砕かれたのです。けれどもその砕きからあなたにもわたしにもいのちが与えられたのです。そのいのちは全世界の民のかなりの数の人々がいただいてきたものであります。それは、ある程度、主のからだである教会において真実であります。

いのちがこの世に入って来たのは、教会の破壊、砕きから派生したのです。そしてそれはすべての成員、すなわちぶどうの木の枝すべてにとって真実であります。もし私たちがこの真実で、生き生きとした宣教を満たしたいなら、悩みを通して、圧搾器を通して、粉々に砕かれることを通して初めて可能なのであります。パウロは申しました。「私たちは耐えられないほどの圧迫を受けた」(2コリント1:8)、しかし、いのちは人が押しつぶされることによって与えられたのだ、と。私たちが今話しているのは説教や聖書の教えではありません。主のいのちが私たちを通して与えられる主の偉大な宣教について話しているのです。それは、他の人々に説教や教えや生き方を通して伝えられるかもしれませんが、もし宣教がイエス様のいのちであるなら、苦しみの経験のうちからしか出て来ないものであります。決して苦しんだことのない説教者や教師はいのちを伝えられないのです。

いかがでしょうか。このことはそれほど楽しいようには思えません。しかしこれが本当のことなのです。もっともすぐれたお医者さん、看護婦さんは自分で何らかの痛みがわかっている人であります。何人かの方々はまさしくあなたをケースとして取り扱うことの出来る専門家でしょう。でもあなたはケースに過ぎないのです。そうでなくあなたを人間として、あなたを癒すことの出来る人がいるのです。

もしあなたがその理由を探し求めるなら、あなたはそれらの人々が自ら苦しんだ経験を持っている方だとわかるでしょう。彼らはあなたが苦しみにあっていることをほんの少ししか知れませんが理解できるのです。私たちはこれまでずっとヘブル人への手紙を読んで参りました。そこにはこう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。・・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。・・・主は試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル4:15、2:18)主イエス様がぶどう絞り器そのものの道を取られたお方です。だから私たちは恵みを受けたのです。

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003141.htmlはです。この文章は3/26「いのちを伝える使命とよろこび」のあとに位置する文章です。ムクドリは写真に見える以上にもっとたくさんいました。彼らはただひたすら餌を求め、また四方を警戒しながら歩み、飛び立ちます。そんなムクドリの可愛い姿の一瞬です。)

2011年3月26日土曜日

「いのち」を伝える使命とよろこび

烈風下 びくともせずに 光浴び セキレイ一羽 いのち逞し
わたしはまことのぶどうの木です。(新約聖書 ヨハネ15:1)

まことのぶどうの木は、一つのこと、そしてその存在の唯一の目的を実現するものです。だからイエス様はこのたとえをご自分と教会に当てはめられるのです。そして主イエス様のご性質がどのようなものであるかは極めて明白であります。イエス様は全ての人に手を差し伸ばされ、全世界を喜んで受けとめてくださいます。

イエス様は世界のすべての国民がご自分を受け入れるようにと願っておられます。すべての人がイエス様の関心であり、いかなる国民も漏らされることがないのです。イエス様は弟子たちに言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)

けれどもこのこと(※)を客観的に考えることはすべて大変良いことです。私たちのうちのだれにもその責任がなければならないからです。キリストがあなたのうちに、また私のうちにおられる証は何ですか。どのようにして人々は私たちのうちにキリストがおられることを知ることができますか。わずかに一つの方法があるのみです。他の方々は私たちを通していのちを受け取られるだけなのです。私たちがキリストのいのちを他の方々にお伝えするのです。心に飢え渇きをもち必要を感じておられる方々が私たちとの交わりを通して、それらの方々はいのちに触れることができたと感じられるのです。

様々なやり方でそのことを言い表すかもしれませんが、結局はこのことに尽きるのです。「あの男の人は、あの女の人は、私が持っていないものを持っている。それは私が必要としているものだ。私がうすうす感じている何かがある。これこそ私が本当に求めているものだ」それはすべてのクリスチャンの真理であるはずです。なぜならキリストが私たちのうちにおられ、私たちを通して主御自身が広がり、私たちを通して主のいのちが伝えられるからです。

ああ、皆さん、祈りましょう。毎日目をさましてくださるように。「主よ、私を今日どなたかのいのちの通り良き管としてください。主よ、今日どなたかに私を通してあなたのいのちを伝えさせてください。私のいるところどこででもいのちを伝えることができますように」

主はあなたにも私にもこれ以外のいかなる計画も持っておられません。私たちは多くのことを手がけるかもしれません。しかし、私たちがぶどうの木につながっているなら、私たちには実を結ぶ以外のどんな良いこともないのです。それが他の方々にいのちをお伝えするということなのです。私たちは何かを掛ける木かぎでさえありません。またどなたかがまっすぐ立ち上がることを手助けする杖でもありません。そうなのです。神様は私たちが実を生み出し、いのちを伝える以外の御用にはお用いにならないのです。

(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003106.htmlですが、※の指摘している「このこと」とは文章が大幅にカットされていて、この文章では文意が通じなくなっています。カットされている部分には、サタンが主の働きに挑戦し、各地で福音が広められることを恐れ、妨害がなされていること、たとえば中国やアフリカでの迫害が指摘され、一方では「教会」が無力化して福音のいのちに生きていない、これもサタンの喜ぶことなのだと述べていますので、それらのことを直接には指していると思われます。参考までにそれらを述べる際に根拠としている彼の引用している聖書箇所を書いておきます。ヨハネ15章、詩篇80:8,14、イザヤ5:1,2、エレミヤ2:21,6:9、エゼキエル15:1~6)