2011年6月5日日曜日

主の宮はどこに存在するか

蛍袋の隣にアマリリスが咲きました。花弁が崩れているのが残念です。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(新約聖書 マタイ18:20)

私たちは、神様が世界歴史の現段階で特別関心を持っておられることがどんなことであるか、そしてそれゆえに主の子どもである私たちが召されていることとはどんなことかが完全に明確になっていなければなりません。神様が今の時代のご計画においてなされることは霊的でありかつ天的であるイスラエルを形成されるということです。その形成において神様は古のイスラエルの様々な律法を霊的な方法で反復されているのです。

神様は古のイスラエルに対するご自身の方法を進められますが、今では天的ではあるが地(上)的な基盤でなされるのではありません。なぜなら神様の方法は変化するかもしれないのに対して、その原則は変わることがないからです。神様は旧約聖書の地(上)的な基盤から離れ、新約聖書の天的な基盤へと移られたのです。一時的なものから霊的なものへの移動でありました。そして霊的であることは一時的であることにくらべてはるかに偉大なことなのであります。

そして、そのことは私たちが新約聖書で経験するすばらしい啓示とすべての主を信ずる者が一つの神の宮とされていることへと導くものであります。キリストが私たちの宮であり、キリストにあって私たちは宮を通してかつて意図されていたことのすべてを知るのです。ああ、どれほど多くの人々がこのことから遠く道を外れて歩んで来たことでしょうか。

私たちは「教会」と称せられる多くの場所に参りますが、そのことばは建物のことを言っているのです。人々がそれらの場所で祈る時、人々は通常このように言うものです。「私たちは今日あなた様の家にやって参りました。私たちは今この神様の家におります」これはまさしく建物について語っているのです。しかし私たちは神様に宮を与える建物を必要としません。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20)イエス・キリストによって集められた人々が神の宮を構成するのです。宮は特別な建物ではなく、キリスト・イエスにある人々であります。これが神様が今日のご計画のうちになされることであります。

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003212.htmlです。本文は平易に旧約のことが新約聖書でどのように実現されたか、ヨハネの福音書の順序に従って①すべての基礎である神の小羊(ヨハネ1:29,36)②閉じられた天と開かれた天(ヨハネ1:43~51)破られた契約とその回復(ヨハネ2:1~11)④神の宮一時的なことと霊的なこと(ヨハネ2:13~22)⑤アブラハムの本当の子孫(ヨハネ3:1~14)と簡潔に述べられています。この文章はその内最初の二つのパラグラフが全体の序文にあたるもので、後半の二つのパラグラフは④の文章中にあるものです。全文読まれた方がもちろんベストです。)

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