だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。(新約聖書 マルコ8:34)
ついには、私たちのキリスト者生活を判断する終わりの時がくるでしょう。だから以下に述べることが、聖霊の働き、聖霊の関心・勢力・活動であります。すなわち人々を入り口にまで連れて来て、中にまで入らせるだけでなく、その入り口は万物が存在する入り口の向こう側に道を開くものだけであることを知らしめることにあるということです。入り口だけではなく、入り口の向こうにあるものが大切なのです。そしてそれはこの再生の働きであり、創造される主イエス様の似姿にしたがって新しくされるということです。
主のご目的が支配するのです。主が重要視し目論み明らかにされるのは、すべてのうちにあるキリストです。キリストがその広大なすべてであります。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」がコロサイ3:11の結びの節です。私たちの救い、最初の救いの時よりももっと満ち満ちているキリストであります。入り口は基本です。しかし、そこへ導かれることは、とにかく中に入って行くことが判断されるのです。
キリストご自身はご在世当時、人々がその入り口に入り、まっすぐな狭い道に入って行く時、困難に会うということを知らしめるのにへまをされることはなかったのです。現に彼らは困難に会ったのです。今やそのことは言うのが大変怖いことのように聞こえるかもしれません、特に入り口の内側に入って間もない信じたばかりのクリスチャンにとってはそうなのですが、それについては完全にはっきりしていることであります。主イエス様はこのことについて誰をも決して騙されませんでした、全然騙されなかったのです。
主は人々に「あとについて行くこと」は、その時言われたように、困難や苦痛や迫害・試練が一生つきまとうことに巻き込まれることだと知らされたのです。代価があり、それも大きな代価です。数々の代償がこの生活においては疑いもなくあり、永遠のための大きな代償があるのに対して、このことは生まれながらの人間であったらとても容易ではないことがわかります。聖霊のこの働きは肉にとっては(訳注:生まれながらの人間にとっては)強烈で厳しく大変な試練であります。
そのことについて誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂しなければならないのであり、全エネルギーを要されるだろうということです。本当にそうなのです。そこで主イエス様はこのことについて私たちをいささかの疑惑であってもそのうちに放置したままには決してなさらなかったのであります。
(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003223.htmlです。今日の箇所は3/16と内容がだぶっていますが、訳は今日の時点での訳にしました。読者の方は比較して、どちらの訳の方を好まれるでしょうか。一人が訳しても、こんなに日によってちがうとは私の訳は当てになりませんね。)
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