神のご計画に従って召された(新約聖書 ローマ8:28)
選ばれた器は器自身がびっくりするほど、神様の知恵の道具となります。遅かれ早かれその選びの器は一つの疑問で一杯になります。「なぜ神様は私を選ばれたのか。なぜこの仕事に私を召されたのか。神様は私以外の誰かを選ばれるべきでなかったのか。私はもっともこの種の生活や働きにふさわしくない。」
それはモーセのものでありました。神様が彼をエジプトへ派遣なさろうとなさった時、彼は「ああ、あなたが誰かを送られるなら、そうしてください、でも私では駄目です」と言いました。神様がエレミヤを選ばれた時、彼は言いました「私は話すことが出来ません。私は子どもですから」(エレミヤ1:6)預言者、その働きは話すことであったのですが、彼はそれは出来ないと感じたのです。神様の選びはまさに異常なことです。そして私たちは神様が召されていることを必ずしもしたいとか選びたいとか思わないのです。
若い時は、恐らく、主の働きのために大きな考えを持ち、まるで自分が出来るかのように熱心に心が燃えているのですが、歳をとって来るともっと痛切に主に頼らねばならないことを感ずるのです。その時、私たちは生まれながら自分たちがふさわしくないことを知ります。そのようにして神様の選ばれた器である多くの人々は神様ご自身の力そのものによって働きを維持されねばならなくなったのです。
皆さんもご存知のように、それが神様ご自身の選びの主権であります。そして要点はこういうことです。つまり器が選ばれたのは器にあるのではなく、目的にあるということです。クリスチャンとして私たちを結びつけるものは何ですか。今度はこのことに耳を傾けてください。結びつけるのは救いでも贖いでもなく、救いと贖いの内に働く神の力であります。すべて信仰を得ている者は目的をもって存在し、神様が偉大な目的をもって目に見える形で救われたというのが互いの共通認識であります。このことは忘れてはならない非常に大切なことです。
主を信ずる私たちは全員が救われますが、同時に全員が分けられているのです。全員がイエス様のかけがえのない血潮によって贖われるのですが、それぞれは独立した構成員にすぎないのです。けれども、それぞれが一つの目的のために召されているという誰もが持つ感情の内に、どんなに結びつける力があるかを知ってください。信ずる者は一つの共通の幻によって結びつけられているのですから。
(今日の箇所は Into The Mind of God - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003210.htmlです。)
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