わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(新約聖書 ヘブル3:18)
私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、 信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な現われであります。
(信仰の安息が私たちの態度でなければなりません。それは、義とされているという大切な問題においてであります。もっとも、もしそのことが今解決されておらず、将来も解決されていないのならばでありますが。ああ、敵は神の民に対してまさにそこ(神の民が義とされていること)を攻撃します、敵はそれを削ぎ落そうとつねに求めています。つまり義とされていることを再び疑わせるような方法を用いてです。敵は決してその削ぎ落しの試みをやめません。
彼の方法は数えきれず、かなりしつこく、強力であります。信仰の安息は 毎日、何百もの(敵の)方法が信仰の安息、すなわち安息をもたらす主による信仰へと立ち向かう機会をとらえて働くのです。その方法は大変巧妙なので、そんなことは余りにも小さすぎるので主を患わせることは出来ないと私たちに言わせるほどなのです。つまりそれはちょっとしたことです、なぜ主にかまってもらうのですか。主はもっと大きく重要なことをかかえておられます。なぜ主にあなたの使い走りをさせてあなたが欲している小さなことまでも全部してもらおうとしているのですか、と。
もしこのうちにその証が安息のうちに維持されるなら、その時、それは主にとって大きなことであり、小さなことではありません。もしこの問題において主のご栄光が苦痛に立ち向かうなら、それは非常に大きなことであります。日常生活においては偶発的なことかもしれませんが、そうです、毎日、実に多くの方法であなたがたと私は非常にバランスをなくし安息を失い確信を失うので霊的に敗北するのです。主は多くのものをなくし、その結果、信仰がいつしかなくなってしまい、それとともに安息がなくなったことが明らかにされるのです。それは一面です。それは私たちにとって挑戦でありますが、本当の挑戦であります。
「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」できないとは、私たちを無力、不適格、無能力にさせる不信仰です。そのことは私たちがこの全体的な問題に直面するのが早ければ早いほど、出来る限りそれだけよりよく解決されるのだということを意味しています。38年間イスラエルは閉じ込められ、進めなくなり、ぐるぐる回っていたに過ぎないのです。言わば、それはイスラエル人が神様を信じ続けるかどうかに関するこの一つの問題でありました。物質的なことが生起しました。なぜなら荒野における生活は物質的なことが大きな問題であったからです。主は物質的な条件を変えられませんでした。主は何よりも人々自身の内側の変化を求めておられたのです。すなわち物質的な条件は主が人々の内側の変化を得られた時、解決されたのです。主によって信仰の問題が解決された時、それから主は物質的なことを処理されたのです。
問題は状況的、情動的、知的、意志的な領域で起こりました。挑戦があらゆるそれぞれの線に沿って無数の方法でなされました。皆さんはイスラエル人のあらゆる経験を取り上げてそれぞれがどれほど信仰にとって挑戦的な特別な形態であったかを知ることが出来ます。その挑戦はほとんど日毎にその局面や形態において変化していましたが、挑戦そのものはみな同じものでした。挑戦はあらゆる種類の線に沿ってやってきました。主はそれを決して変えられず、妨げもせず、状態が丸ごと代えられることも許容なさいませんでした。しかしつねに一つのことに的が絞られてたのです。問題になるのは内なる人であります。その内なる人の問題が解決されるまでは、主は、すべての他の事柄を処理なさらなかったのです。
いいでしょうか。それは包括的なことであります。)
私たちの状態を説明するかくかくしかじかのことがどうしても必要だと考えないでください。これらが諸要因に寄与しており、非常な試みとなり、私たちに非常に重くのしかかっているのかもしれません。物質的なことは—そうです、それらが圧迫し、状態を非常に困難にし、影響を及ぼすのです。私たちが生活しなければならない環境は多く違っており、それらが状態を非常に困難にしています。
私たちは言うのです。もし、主が、この物質的な条件、これらの環境、またこの他のことを扱ってしさえしてくれれば、すべてはそれによる、それが原因であり、理由なのだ、と。それが私たちの推論の仕方です。けれどもそれは全然主のお考えではありません。事態はそれよりももっと深く掘り起こされることであり、それは神様を信ずることに他ならないのです。つまり断固とした信仰、神様に対する確信です。
主は、私たちを、その変わりやすい、そして感情や思想や推論やあらゆるその種のことがらを慈しむという変わりやすい、たましいの生活から、霊的に確固としている領域へと引き出そうとされているのです。それが詩篇の中にすべて据えられている要点であります。「彼らの心は神に誠実でなかった」(詩篇78:37)そしてイスラエル人の40年のすべてはそのことばの周辺に集約されるのです。これに対する鍵は霊的であります。すなわち一切の他の方向により、一切の他の手段によって試されるものです。それが究極的に霊的なことであるという意味です。主の御霊によって内なる人が(エペソ3:16)強くされることがそのすべてに対する答えであります。
(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003213.htmlです。訳があまりよくありません。小文字のところは原文の前後の文章です。本文の文章はこのあとカレブとヨシュアの例が述べられていて首肯的であり、その訳をつけ加えると良いのですが・・・)
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