義妹の家族は花を愛する、この菖蒲も白い菖蒲群の一部である。 |
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(新約聖書 黙示22:13)
私たちは私たちの持っているすべての枠組み、計画、準備、主に対するプログラムの数々を戻し、主との密やかな場所において、主との本当の生き生きとした霊の結びつきがもたらす新たな価値へと進むべきです。それは目的が私たちから始まるのではなく、たとえば私たちの考えや意欲や意志によらず、神様が始められるようになることであり、私たちのうちに神様からのものであるということがわかるからです。
主が私たちをご覧になる時、主はご自分がなしておられる霊的な感覚をお持ちになり、それを行なわれるのは「同じようである」ことでしょう。と言いますのは、神様はご自分が目的についてそうであるのと同じように方法についても細かい配慮をされるからです。問題は神様のために事を行なうということではなく、神様が行なわれるということです。それが、なぜ、例の使徒が新しく造られた者についての開陳を述べる重要な節に次のことを加えるのかという理由であります。その時、使徒は言うのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。しかし、これらのことはすべて、神から出ているのです。」と。新しく造られた者にとってはすべてが神様から出ているのです。
神様の働きのうちに一人の人がいます。神様のすべての働きがゆだねられている一人の人です。一人の人、たった一人の人がいます。神様のすべての働きはその人と栄光のうちに緊密に結びついています。私たちにとって大切なことはキリストがどういうお方であるかを知ることです。それはキリストがどなたであるかだけでなく(どんなにキリストが神様であるかを知ることが大切であっても)キリストがどういうお方か、すなわちキリストはすべてを包含する新しく造られた人であるということです。言い換えれば、キリストは今や神様が人である方、十分、完全で、決定的かつ究極的に神様の考えを表しておられるということです。
新しく造られた者に関するかぎり、イエス・キリストを離れて神様の表現はありません。神様の思い、意志、意欲、働きはキリストにあって完成されるのです。イエス・キリストは最初であり、最後であり、その方を除いては達し得ないのです。
(キリストは新しく造られた者の代表であり、包含者であります。あなたも私も新しく造られた者となり、それに準じて働くためには神様の思いや神様の意志、神様の意欲 、神様の働きに応じて主イエス・キリストとのその結びつきに入り、主がどういう方であるかによって生きる方法とならねばなりません。私たちの古き者がわきに置かれ、そして、新しいキリストによる人が取って代わらねばならないのです。)
(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003233.htmlです。)
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