月曜日、義妹の玄関先で見かけた珍しい花。その時は気がつかなかったが、蟻がいる、いる |
私たちは何か新しく、かつ違った歩みや、また何かの新鮮な計画や立場に直面させられる時はいつでも、全てに関連する一つの問いがあるものです。その問いは明らかにされるべきものであり、熟考しては、繰り返し真剣に祈り求めるために十分な時間を必要とされねばならないものであります。その問いとは、「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致しているか、決して断片的でなく、みことばの全体に照らし合わせてみて」ということです。神様は私たちを疑いなき状態に置かれました。それは神様がご自身で介入なさる究極的な目的として見える形ではっきりと区別されるご計画をお持ちだということです。神様はまた、その計画がどんなものであるかを非常に明瞭なものとなさいました。さらに信者たちは「神様の計画にしたがって召されていること」と、それに「召しと選びが確かなものとされる」ためであることがはっきり示されるのです。
(長年、前進し続け、神様のしもべとして大いに用いられた人は、その生涯の終わりに向かって、自らの最大の関心は「キリスト・イエスによって捕えられ、それを得るようにしてくださるように願っている」ことであると言いました。)
すべての真のキリスト者の仕事と責務とはその「永遠のご計画」がどんなものであるかに関して学べば学ぶほど極めてはっきりしてくるということです。そうしたならば、私たちが従事するために起こされるあらゆることはその計画を判断する桟のような役割を果たし、その光のうちに問いただされることになるに違いありません。もしこのことをたずねもとめることに真剣でなかったり、与えられる光に従わないなら、神様は私たちの行く道を妨害なさらないし、道を進む上でいかなる分岐点にあっても特別光を与えられないでしょう。とてもじゃありませんが、私たちが正邪や善悪を比較したり、許容範囲、望ましさ、便宜かそれとも方針なのかを比較したりすることに影響されたままにはされないのです。野心や自己満足や「主のため」に広げられた見通しやキリスト教におけるより広範囲な受容やその他いかなることも私たちの判断を色付けしたり、私たちの決定に影響してはいけないのです。有利か損をするかはここでは決定要因として無視されます。
一つの問題、そして一つだけが悲劇か栄光かを決定することでしょう。「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致するものか」であります。目的が達せられ、完全な物語が話され、総決算の時、このことと密接な関係を持つどれだけが、キリストにあることの内実を全然持たず、それゆえに永遠にまで持ち越すことができないものとして剥ぎ取られることになるのでしょうか。神様の川は何を取り除かれ、天では何が浮上するのでしょうか。(これがパウロがコリント人への手紙につけ加えた大きなテーマでした。)
(今日の箇所は The Danger of Coming Short の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003232.htmlです。このシリーズは三度目の登場です。他の部分と比較して読まれますように。なお文章が非才のこの者には難しく、まちがって訳しているところがある、と思います。原文を必ずご確認ください。)
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