2011年6月8日水曜日

主のpilgrimageはどのようなものだったか

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(新約聖書 1テサロニケ5:24)

私は信じているのですが、私たちは主イエス様の霊的な巡礼の旅について新しい理解を必要としているということです。主は神の御子であったから、主はそういう方だったから、主の歩まれた道は私たちより困難は少なかったと思います。彼には私たちが持たない力がありました。また私たちが持たない性質がおありでした。私たちには主のようなお方の不思議さは理解できません。たとえば主は試みや困難や逆境に支配されており、ぎりぎりにいたるまで試みられ、そこを通り抜けられるように天の干渉が求められました。

主はそのようなところへ導かれました。そこは、主は一度ならず、かつてくぐり抜けることがなく、干渉される天や主を助ける天使らを持たなかったようなところでしたが、そこにまで導かれたのです。あなたは言うでしょう。私はそんな経験を一度もしなかった、と。ああ、しかし、あなたもおありなのですよ。あなたは天使たちが皆さんを助けるためにやってくるのを実際、経験しなかったかもしれません。しかしこの道を行ったことがあり、どこか遠くまで行き、心の中で「わたしは今日、神からも天からも見放されている」と知る信者は一人もいないのです。(Ah, but you have. You may never have actually seen angels coming to minister to you, but there is no believer who has gone this way, who has gone any distance, but knows in his heart, “But for God and Heaven, I would not be here today.”)私自身の証は一度ならず私が敗北するのを助けるために天の干渉が必要だったことがあります。

しかし、私たち自身にとって真実であることは主御自身にとってはるかにまさる真実でした。私たちはこの奥義を理解していませんが、主はあなたや私がかつて必要とし、経験し、あるいは将来経験するであろうものよりはるかに深い試練と試みのともなう霊的な巡礼を経験なさったのです。そうです、「すべての点で、私たちと同じように」(訳注:ヘブル4:15)はその通りです。しかし主にとっては私たちにとってよりもはるかに鋭さをともなったのです。そのすべてを通過して主は完成された、「完全な者とされ」(訳注:ヘブル5:9)たのです。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・とこしえの救いを与える者となった」(ヘブル5:8,9)「永遠の贖い」(ヘブル9:12)主は私たちのために完成を目指す道の終着点に到達されたのです。そして主は神様が私たちにあって完成をなすことのできる保証であります。それがポイントであります。主は信仰にとって、様々な行いの称号のようなものとしてそこにおられるのです。すなわち神様は主をしてそこに到達せしめたのですが、どんな者もそこに到達できるという保証であり確さなのであります。主はあなたも私も終着点のそこまで行かせることがお出来になります。主は私たちのうちにご自身の働きを完成させることがお出来になるのです。

(今日の文章は God's Purpose in All - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003215.htmlです。英文を示しましたところはこの文章のある意味で頂点になるような部分のような気がしますが、誤訳の恐れが多分にありますので併記しました。読者の方の適切な改訳をお願いしたいところです。)

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