信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(新約聖書 ヘブル11:1)
(ヘブル11章に登場する人々は勝利を勝ち得て、その証を続けた人々でした。しかし、ああ、これらの人々が立たされた位置や彼ら自らが己が内に見いだしたところは何と不可能な状態でもあり、無力であったことでしょう。けれども結果は・・・。そうです。アベルは「死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(訳注ヘブル11:4)とある通りです。彼は依然として生きているのです。勝利を経験しました。他の人々もです。
そしてヨセフ、この人は完全に無力で非常に深い深みに陥れられたのですが、その苦境から脱出する手管を持ち合わせ得ないのです。もしヨセフに幾分でもかすかな望みがあったら、たとえば執事がヨセフの解放される時を求めて自分のことをよく言ってくれないかなという望みがあったとしたら、彼の望みは失望に終わったことでしょう。執事は威勢のいいことを言ったのですが、ヨセフのことを忘れたのですから。ヨセフは何も出来ませんでした。自分の解放のために何の操作も出来ませんでした。彼はそこに放置されたのです。
解放は神様でなければなし得ませんでした。それをなしてくださるのは、ただ神様だけだったのです。(その結果)ヨセフは王座につき、国の第二の人となりました。ヨセフは主のいのちの証を家族に伝えるために・・・いのちが保たれたのです。・・・・)
神様は私たちに暗闇の経験を通らせなさる時、ご自身がしておられることを話されません。もし神様がなさるのだったら、大丈夫なのです。もし神様が「わたしはあなたを非常な苦境へと導いて行っているのです。そこはことごとく暗く、奇妙で混乱し当惑し無力なところであります。でも大丈夫です。わたしが大きなことをしています。これがわたしがそこから引き出させようとしていることです」もしも神様がそうおっしゃったら、信仰の要素は次第に消えて行ったことでしょう。
もし神様が何かをしておられること、すなわち、暗闇に置き去りにし、遠くへ離れていってしまうように見え、またいかなる関心を示さないということとは全く正反対になされることを話さえして下ったのなら。もしそれさえ話してくださったのなら、です。ええ、でも神様はそうはおっしゃらなかったのです。だから私たちには神様がそう言われない、説明もなさらないことがわかっています。けれどもここに信仰の挑戦があるのです。
これがヘブル書11章と信仰の人々があらわそうとしていることです。そしてそれが意味するところです。私たちはその信仰者の相続財産を持っていること、大きな財産、信仰の人々が持っていたよりももっとたくさん持っていることを神様に感謝してください。これらの人々は聖書を持っていません。彼らがそこを通過していた時、聖書は書かれていませんでした。私たちは今彼らの物語を持っています。そしてそれもかなり多くのものをです。結果を見、続編を持っていますが、それは本当に私たちの助けとなっているでしょうか。
あなたが悪い暗闇の時を経験し、万事悪くなっていると感じているのなら、ヨセフの話をもう一度読んでください。それを読み始めるや、あなたは巻を措きたくなくなるでしょう。その偉大な教訓を取り上げてみてください。ヨセフの神様は私たちの神様です。神様は同じことをなさいます。そしてそれはいのちにとって真実だとわかります。私がずっと言って来たことはいのちにとって本当に真実です。私たちはその証拠を持っています。とにかく、それは私の経験にたいそう似ているのです。だから私には同じことが引き起こされると考え信じる根拠があります。復活の神様はこのことのうちに働いて栄光に導かれるお方です。
(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003216.htmlです。)
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