2011年6月7日火曜日

殺す働き、生かす働き

文字は殺し、御霊は生かす(新約聖書 2コリント3:6)

もし、あなたが何かについて御霊による思いを知りたいなら、パウロが言うように「御霊による思いはいのちです」(ローマ8:6)とあるのですから、その方向に向けば、いのちがあるのですから、それによってすぐに知ることでしょう。もし、逆に御霊に反することを知りたいのなら、霊において向かうところが死であるので、あなたが口に出すように、こちらにはいのちがないということを知ることでしょう。確かにそれがあなたが主を知っている、御霊を知っている、キリストにあるいのちの御霊の原理の基礎の上に動いているのだと知ることを意味しているのです。

父なる神様はその原理によって御子を治められました。神様は私たちをも、私たちが主とひとつの霊で行をともにしているならば、まさしく同じ原理で治められるのです。導きや私たちが進むべき方向は御霊のうちにあるいのち、御霊によるいのちの問題です。主イエス様は詳細にわたって即座に働きかける御霊によって命令を与えられ、統治され、指揮され、整えられるいのちをお持ちだったのです。

このことをもう一度以下のことで対照してみましょう。(訳者注:ヨハネの福音書5章に登場する)ユダヤ人は(ベテスダに)やって来て、こう言ったのです。「ここに聖書がある。聖書は言っている、お前たちはこれこれのことをしてはいけない。ところがお前たちはそれらのことをしている。お前たちは全員間違っている、聖書はこう言っているのだから、だ。」

キリストがそうなさった時(訳者注:38年の間患っていた人を安息日にいやされたこと)キリストは聖書の(戒め)を破られたのでしょうか。 それともキリストは聖書に神様の御意志を示されたのでしょうか。神様がその律法を授けられた時、神様は人々が表面的にちょっと見ている以上にもっと完全な意味をお持ちではなかったのでしょうか。霊的な意味合いはなかったのでしょうか。それが問題になった時、取り替えるべき(破るのでなく、越えることを意味する)何かが指摘されたのではなかったのでしょうか。それは単にもっと高く完全で深い意味が到達されたにすぎないのですから。(Was it not pointing on to something, which when it came was to supersede - I do not mean break, but transcend - simply because higher, fuller, deeper meaning was reached?)

キリストは神様の安息日であります。キリストにあって神様はあらゆる働きを休まれるようになるのです。つまり神様の新しい創造であります。けれどもユダヤ人たちは言ったのです。お前たちは文字(訳者注:律法)から一歩も出てはならない、と。そんなふうに文字を守ることと文字について聖霊により心に照明をいただくこととの間の相違が示せるのです。いのちと文字はしばしばみことばにおいて対照的であります。文字は殺し、御霊は生かすからです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 英文を併記したところはどうしても訳せないところです。無理に訳を当てはめましたが、自分でも何を言っているのかわからないところです。ただそれにもかかわらず、この6章全体は引用聖句ヨハネ5:19~20,30;16:13、ローマ8:2,6を載せ、大変霊的な内容のものです。全文の一読をお勧めします。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003214.htmlです。)

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