水・肥料不足か?勢いの無いのが難だが、ちょうどいいところに花を咲かせたので |
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(新約聖書 ローマ15:13)
もしあなたも私も、私たちが本来あるように聖霊の油そそぎを受けて来たことが真実であるのなら、この世において私たちのありようは神のために積極的な何かを残すはずであります。その何かを残さずしてこの世に入り、そこから出て来ることは不可能であるはずです。この世の人々は私たちが彼らに近寄って行く時、何かを感ずるはずです。悪魔自身は私たちが聖霊のもとにいるのでイエス様がおられることに注目せざるを得ません。イエス様にとって何事も起こらずしてどこかにいることは不可能であります。今やイエス様は聖霊によって信ずる者のうちにおられます。それゆえにいかなるクリスチャンと言えども中立ということはあり得ないのです。
聖霊は積極的であり消極的ではありません。もし聖霊が私たちの生活において本当に主であるなら、私たちの生活は価値あるものとなるでしょう。とこしえに続くいのちからの影響があるでしょうから。神に聖霊のゆえに感謝してください。主に対して、油注ぎが私たちの生活に自由な生き方を保証してくださることを確信して祈り求めましょう。聖霊の働きはある者に罪を明らかにし、他の者には罪の贖いをなすものであり、中立はあり得ないのです。そして、もしあなたや私の上に油が注がれるなら、悪魔はそれを重要視するでしょう。主よ、そのことが悪いことにならないように助けてください。あなたは悪魔が次のように言うのを望みますか。「ああ、あの男ですか、あの女ですか。問題ではありません。あなたは彼や彼女について心配する必要はありませんよ」と。
私にはかつて一人の友がいました。私たちは別れ、それぞれ違った道に行きかける時はいつでも手を取って言ったものです。「さらば、古き人よ。主はおまえを悪魔にとり不愉快にさせます。」いかがでしょうか、それがもし聖霊が本当に私たちの上に臨まれるのなら、そういう方法を取られるのです。と言いますのは、それが主イエス様が通られた道なのですから。
(今日の箇所はの抜粋引用訳です。原文はです。全文は6頁ほどで英文も読みやすく、含蓄のある内容です。特に種まきのたとえを通してスパークス氏が言おうとすることは私に取り初見でした。なお訳文は最後の方、必ずしも適切ではありません。直接原文でお確かめください。当たるも八卦、当たらぬも八卦的な訳になっています。「一人の人」をスパークス氏の分身と解釈してみたからです。間違っている可能性が多分にあります。その折はお許しください。)
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